2011年12月26日月曜日

師走の大山(伊勢原市立中央公民館4Fから)


今年の師走は寒い朝と暖かい昼間とで冬の楽しさを味わわさせて頂いています。
そんな中、年末挨拶周りの帰途、平塚からの返り道、伊勢原平塚線新道の「高砂」辺りから見える大山が電線も気にならず、とても壮大に見えて、夫婦で感心していました。富士山は雲がかかっていましたが夕焼け近い期間で、大山に向かって気持ちよく帰宅しました。
そんな今日、歴アド一期生の西部さんがお孫さんと一緒に「中央公民館からの大山眺望」写真を届けて下さいました。撮影者はやはり一期生の「酒井さん」です。酒井さんとは先日の真田城ウォークも一緒で、二枚目の写真です。とても嬉しく、すぐUplaodしました。
青空に白い建
物と雲、そこに延びている大山の山並みは、青と黄土色の軽快な姿でした。とてもすっきりした気持ちになれました。一番右に写っているのが大山。左の2番目の雲の下の谷間に写っている白い山は「富士山」です。雲に見えますが・・・。
下の写真は「中央公民館」です。「古文書を読む会」は毎月、ここでやっています。
酒井さん、いろいろ、ありがとうございました。

2011年12月10日土曜日

石倉橋発掘現場から大山を望む

平成23年12月10日(土)石倉中遺跡の埋蔵文化財発掘調査見学会があった。
古い大山道が発見されたと聞いて、出かけた。
見学会には地元、若い学生など30人ばかり集まっていた。
説明者の話に注文をつけるご婦人等も出て、熱気が感じられた。
 昔からここは大山道の集合地である。
 当時の人が見たであろう位置から「大山眺望」した。
 良く写っている。

「石倉中遺跡発掘現場見学記」その3、出土品

出土品の概要> 
1、縄文時代の石器・土器

 縄文期(8000年前)の石器・土器である。                最後に、出土品は手にとって見ても良いよ云う説明があり、びっくりした。しかし、今は石器、土器はあちこちで出土するので、それほど慎重に扱わなくとも良くなったのかもしれない。折角なので、落とさないように注意し、いじくりまわした。こんなに気楽に石器、土器に触れた事が無い。感動!                                   この辺りは縄文期から人々の暮らしが延々と続いていた状況が理解できた。



2、江戸期の陶磁器と通貨

前述の名主分家の屋敷跡からであろうか?沢山の陶磁器が出土している。

 た、銭も出ている。祭祀用(地鎮)に使ったものでなかろうかという話も出た。






















3、明治期の便器

明治期の染め付けの便器が発掘された。小便器もあった。
かなりの富裕層の人物の屋敷であったろうか!?

「石倉中遺跡発掘現場見学記」その2、道状遺構

<道状遺構の概要>

1、道状遺構3号

 道状遺構3号と呼んでいる遺構は、左全図の道状遺構(黄色部)で、幅4,5mの遺構である。     道であると云う証拠は、掘り込んでゆくと堅く締まった硬化面があり、帯状に延びているのでかつて道であったと云う訳です。 

                                                                    特に、3号道状には、良く分からない穴があり、灯篭や道標が建っていた跡ではないかと推察しているようである。




左写真=3号道状

(石倉橋交差点から北に向かって撮影=茶色部)











左の写真=凹みを指さす説明員。(燈篭跡か?)




2、道状遺構2号

 道状遺構2号は上全図上部の横に伸びた黄色部である。この道路は左に行けば大山に通じ、右は伊勢原に通じている。説明を聞けば直ぐ「青山道」ではないかと推察できた。説明者も同じような事を云っていた。 

最端部で上手く撮影できなかったが左が大山に続く方角である。

とは関係ないがこの写真の最上部の突き当たりの

層に宝永の富士噴火の層が見えると云うので後で見てくれた。に行ったが良く分からない。現地の係員が中に入って撮影ししてくれた。          中央の筋がの層である。








「石倉中遺跡発掘現場見学記」その1調査の概要と成果、建物跡

<埋蔵文化財発掘調査の概要>

1、道路整備事業に伴う発掘調査

伊勢原市上粕屋石倉橋近辺の遺跡発掘調査は現在工事中の(第二)東名高速道路から厚木秦野道路(国道246号線バイパス)のICへ接続する道路となるための「埋蔵文化財の記録保存」としての発掘調査で、今年の10月のブログにも掲載したように、神奈川考古学財団の手で、2010年1月から始まっている。

写真は「都市計画道路西富岡石倉線」及び「伊勢原北IC(仮称)接続区間」整備事業計画の平面図と完成予想図である。























2、調査区域の全体図と成果

調査区江戸時代に賑わった大山裾部に位置し、石倉橋とは江戸時代に賑わった大山道に沿っ


呼ばれ、各地域と大山を結ぶ街道が合流し、三の鳥居を経て門前町に至る経路で、帰路の江の島や鎌倉に至る分岐点として古くからの交通の要所でした。        これまでの調査の結果、大山道に沿った江戸時代の建物跡や道状遺構、奈良、平安時代の円形土抗や縄文時代(8000年前)の落とし穴等が発見されている。                      (以上、パンフより)

 要は、縄文期からの遺跡であるが、主な成果は江戸期の建物跡と道路遺構の二つであるという事らしい。
 しかし、私が面白かったのは江戸期の大山道の遺構は当然であるが江戸期、明治期の磁器や縄文土器などもとても興味をそそられた。                   
 
右写真の説黄色の部分は道状遺構明。空色の部分は住居跡。 橙色の部分は溝


<建物跡遺跡の概要>

建物跡は主に現在の大山道に沿って点在している。今回の主な成果となった江

戸期の建物跡からは陶磁器などを中心として、かなりの裕福層の建物跡と思われる。(全掲の地図参照:空色部)

 この地域の名主である石倉何某の分家であったと云うのが通論らしい。家主は明治期に自由民権運動にもかかわった方らしく、地元では有名らしいが良く分からない。出土した陶磁器から見ても元禄期の備前焼などが殆どで、中には庶民には手の出ない、大名級の磁器もあると云う。





2011年12月9日金曜日

高尾山山頂からの大山眺望

伊勢原歴史解説アドバイザーゴルフコンペで一緒にプレーした横浜の野久保氏より、次のようなコメントで、大山眺望の写真を送って頂いた。

 横浜市緑区から撮った大山の写真をお送りします。
 私の家の近くの公園からも大山が見えますが送電線が邪魔して大変見苦しい写真しか取れません。

そこで、自転車で10分程度の町田市との境にある高尾山の山頂から撮った写真をお送りします。

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高尾山は海抜100mあり緑区一番の高い山です。山頂には市内唯一の一等三角点があり、飯綱神社があります。
この神社には飯縄大権現が祭られております。
飯縄大権現は1600年ころ現八王子市の高尾山薬王院から勧請したとのことです。大山の真ん中に見ますと右手奥に白雪の富士が見られます。
眼下の町田市のグランべりモールが多少うっとうしいですが、雄大な大山と富士の高嶺をみると心が洗われる思いです。

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参考のために、長津田十景と氏子の詞書を添付します。




2011年12月7日水曜日

伊勢原市歴史解説アドバイザー2期生研修会に参加

平成23年12月7日(水)、伊勢原市歴史解説アドバイザー2期生の自主研修会と忘年会が日向渓谷の史跡散策を中心に開催された。
 散策個所は浄発願寺、大友皇子の墓、石雲寺、浄発願寺奥の院等。この辺りは講習会の初年度、もっと広い範囲で、散策したことがあるが今回は気付かなかった史跡に巡り合った。


その1。右の写真。大友皇子の墓からヤブ地を右奥に進むと10基ばかりの墓石に出合う。
3本の塔婆があり、「高遠出身石工先亡諸精霊供養」と書いている。高遠の石工の墓地だった。始めてみるので新鮮で、感動した。この辺りは石雲寺の領地だったらしく、今も石雲寺が供養していると云う。





その2。右は石雲寺境内入り口右手の御堂の写真。中に祀られているご神体に「石」がある。びっくりした。佛寺での石尊信仰など聞いた事が無い。咄嗟に石雲寺の山号が「大山寺」と同じ「雨降山」である事に思い当たる。
側にいた市文化財課の諏訪間氏に問いかけると、大山寺と「石」の獲得で争った経緯を聞いた。門前の碑にも書いてあった。
 「雨乞い信仰に関係して、雨降石がご神体の石尊社が境内にある。江戸時代の初め、大山寺との雨降石の争奪戦で石雲寺本堂が大山寺の宗徒に焼かれたと云う」とある。雨乞い信仰は大山や日向を中心とした山伏(修業僧)の中心だったのだろうか?



    
その3。前回は気がつかなかったが、奥の院に導く参道に、多くの「神仏分離運動」の跡を見た事である。
上の写真は山門前の立像であるが皆、頭部を落とされている。
下の写真は旧奥の院跡辺りの仏像であるが一躰、落とされていた。
途中の坂道の仏像の殆どが頭部が無い。どなたかが手ごろな石を載せて頭部代わりにされておられる。
伊勢原における「神仏分離運動」の実際は、太田道灌の墓がある洞昌院の本堂前に集められていたのを見た事があるがこれ程の事を実感し

たのは初めてである。その徹底した過激さに驚かされた。東北の宗教 界では見られない事である。
石雲寺で見たように大山寺との関連であろうか。
とすれば、権田直助を先頭とする御師たちが実行したのだろうか?しかし、それにしても過激である。
大山寺は阿不利神社を包含していたから、強硬策の必要性も分るが浄発願寺は神道と関係はないと筈である。山伏間の関係であろうか?
在家僧侶の私には見るに忍びない感がある。と云って、権田直助を恨む気もない。時世である。
しかし、その過激さの正体を調べてみたい衝動に駆られている。





2011年12月6日火曜日

越谷からの大山眺望


今年も、埼玉県越谷市からの「大山眺望写真」が届きました。
前作より、丹沢・箱根連峰の峰々が良く写っています。
富士山の右では、夕日が落ちようとしています。
富士山の見える場所も「葛西水族館」と教えて頂きました。
テレビでは、「文京シビックセンター」や足立区の「舎人公園」など富士山がよく見えるそうです。
富士山が見えれば「大山」は見える筈です。その内、行ってみたいと思っています。



道子窯体験ツアー報告(作品展示)

道子窯の初めての体験ツアー。
 窯元も初体験で、全くの素人を相手に、悪戦苦闘。己の人生を、「袖摺り合った他生」に賭けて下さった窯元に感謝!!
それは、企画者の斉藤舎弟も同じ事。「他生」にかけて11年目、ようやくここで、最高の縁に巡り合う。
それは、「プロのピアノ伴奏で、演歌を歌える機会を獲得」できた事。
まさかの事が起こった一つである。もう一つは、市民ゴルフ大会で、ハーフ、39を出した事。
 昨年、刻字した「挑戦」の文字を、老年でも通用することを実感できた二つの瞬間である。

「つべこべ」はこれ位にして、以下、体験ツアー参加者の、作品を掲載します。
なお、松沢氏はオーソリティーです。(写真をクリックすると大きくなります。)



師匠の作品     作品を手にする松沢氏

斉藤兄の作品












                                                                                                                   





 



 左の写真:野久保氏の作品                                                         下の写真:加藤女史の作品        
  

道子窯体験ツアー報告(窯出し)

12月5日(月)待ちかねた「窯出し」の日です。
その前に、11月24日(木)の窯焚き初日、斉藤兄が撮影した「炎の中」の作品が右の写真です。







「窯出し」は計画とおり、10時に始まりました。参加者は窯元他、パートナーの松沢氏、斉藤兄弟、横浜から野久保氏、座間から加藤女史の6名。その内、4名は見ているだけか、運び屋です。
以下、その様子です。


2011年11月26日土曜日

岡崎義實の話といせはら景観フォトメッセージ展観覧


 26日(土)、14:00から図書館で「岡崎義實と鎌倉幕府(講師、東海大文学部 三田武繁先生)」があったので、その前に文化会館で開催している「いせはら景観フォトメッセージ展」を観覧。
 初日だが四,五人の観覧者がいた。思ったより応募写真は多く、子どもたちが94点、大人たちも150点以上で、見るのが大変であった。
 投票は当然、自分の作品にしたが子どもたちの作品の投票には、どうしても大山が関係している写真となった。特に大山と自然と現代の情景を写し取った作品を1位に記入した。
 何故か、私の写真が1番に飾られていた。コメントが役所を褒めていたからであろうか!?


2011年11月25日金曜日

道子窯体験ツアー報告(本焼き)

2011・11・25(金)、本焼き中という道子窯を見学訪問。
 化繊の着衣を避け、サングラスを鞄に入れて、私たちの後、体験した方と一緒に、9時半ごろ到着。
 道子窯は谷川に沿った谷底にある。上には灯油窯があり、その横に看板。星印のあるドアを開けると作業場である。折角なので、今日紹介した。






















普段はとても静かで、水音しかしない窯場に、音楽が流れている。
佐藤さんのお仲間の松沢さんが静かに火守りをされたいた。







 23日(水)火入れをし、既に3昼夜 燃やし続けていると云う。
 窯に温度は、一日目は800℃位までにし、徐々に温度を上げ、現在は、1253℃。これが1300℃まで上がれば終了という。
1250℃位から1300℃まで上げるのが大変なのだと教えて頂いた。
しかし、上手くゆけば26日には到達するかもしれないと云う。
26日原さんと来るはずだったが残念。彼に連絡しよう。
窯焼は28日までと知らされたが何時1300℃になるか分らないので、この様な予定になるのだと云う。












この窯はこの種の窯でも最小のものらしく、窯口を燃やす薪で埋めながら焼成する「薪蓋方式」という事である。もう一つのやり方は「投げ込み方式」と云い、蒸気機関車の石炭くべと同じ方法だと云う。

今日、燃しているのは、家屋の柱材となっている杉、檜材と灌木材とを併用で燃しているという。ある程度、重く、堅い木を使い、熾き火ができ、さらに火力の強い熾き火の方が良いと云う事である。

窯口を少し開けて頂き、中の様子を撮影。こんなことをしていると折角上昇した温度を下げるので滅多にやってくれない。大サービスだそうだ。







優しいそうな皿を成型した彼女が窯にそっと手をかざし、熱さを確かめている。







火を強めると、余った火の勢いは窯の奥に作った煙突から火柱が上がった。
「こんな焚き方は良くない。」と松沢さんは云いながらもやってくれた。
女性の訪問を受けて、様々な場面をパホーマンスして歓迎して下さった。
他所の窯では絶対あり得ないと云う。
しかし、人との結び付き大切されている「道子窯」主人は「袖すり合うも他生の縁」と笑った。
昨日は斉藤兄が来窯し、薪くべ作業を手伝う事ができたが今日は無理だと云うので、眠い目をこすり、説明してくれた佐藤さんの睡眠を邪魔しないためにと思い、昼前に引き上げた。