2011年6月25日土曜日

津久井からの大山道・道子窯体験ツアー報告

6月18日(土)と25日(土)の両日、津久井からの大山道に近い、煤が谷に道子窯と名付けて、穴窯を構えられているギャラリー工房すえろまるで、作品作り体験ツアーを行いました。窯主の佐藤氏の丁寧なご指導を頂き、手びねりとろくろで作品を作りました。
この中で、佐藤氏は穴窯作りの苦労と工夫を、淡々と話してくれ、陶芸の楽しみ方を教えていただきました。穴窯の命は「火のまわりと温度」と言うことで、いかに、火が窯の中の作品に上手く行き渡らせるか、そして、煙突の工夫で窯の温度を1300度まであげた時の喜び等も話してくれました。そこは、もう、氏の独自の世界で、私には到底、付いてゆけない世界でした。
 現在、伊勢原市内に新居を構え、煤が谷の家は、工房と作品展示室に変っていました。

窯入れは9月頃と言うことですが自然釉の素朴な作品の出来上がりが楽しみです。

氏の「個展」は今年10月頃、また、横浜で開催する予定とのことでした。

今回のツアーの様子は、スナップ写真でuploadしました。










2011年6月24日金曜日

大山の T シャツ絵(桜の季節・八幡台からの眺望)

                                      
 合唱団仲間の西部氏は絵画を楽しむグループにも所属され、過去に大山を描いた T シャツ絵を 2枚制作されています。1枚目はすでにこのブログで紹介済みですがこの度、その2枚目を手に入れました。
 モチーフとなった眺望写真には近くの桜が満開で、山頂には雪が残っていまた。氏はTシャツ絵という大衆性を考慮してであろう、その桜を誰にでもわかるように、 花びらで表現しています。それがとても優しい感じで、好感が持てます。
 モチーフの写真の裏に「T シャツ のモチーフです。’03年4月初め。桜は八幡台、神奈中体育館」と書かれています。

 8年経った現在、神奈中(路線バス会社)の体育館は幼稚園に変っていますが、かつては伊勢原中(じゅう)のママさんがバレーの試合で熱中した体育館でした。何を隠そう!このブロガーの奥方もかつてはママさんバレーチームの優秀なアタッカーでした。その奥方も今は膝が痛いとナイテいます。
 しかし、大山は今も、昔も変わらずに聳えています。その姿に、またどなたかが、写真を撮ったり、絵に描いたりしてくれるでしょう。

2011年6月14日火曜日

小学校へ出前授業;縄文土器作り

伊勢原市教育委員会文化財課が毎年提供している縄文土器作りの出張授業に歴史解説アドバイザーのお仲間8名と参加。




6年2組に属。指導は学区内の仲間3名。

昨年も参加したが様子が分かっているので気分が楽で、余裕の指導。

個性のさまざまな子供達の様子を確かめ、指導のポイントをつかむのがコツ。

助言が的確で、嬉しそうな子供の顔を見るとホッとする。教えることとは「叩き込むの他に、引き出す」という事を退職して10年、ようやく気がついた。しかし、気づいたのだから良いことにしよう。

現役時代の不徳を今補う為、徹底して、サブに徹し、子供たちとやり取りする。満足。


写真は子供達の力作の全作品。名前までは分からないが、作品を見れば、「ああ、あの子だ・・。」と思い出す。

9月の土器焼きのときは必ず参加すると約束した。














2011年6月5日日曜日

大山道:沼目の舟つなぎ松

 6月4日(土)の「大田、沼目地区史跡めぐり」の続きです。


昼食は大田公民館でした。昼食前、地元の女性たちで結成された「劇団」の人形劇を見せていただきました。演題は「こがの渡し」。この辺りに伝わる、旅人に便利さを提供した渡し」の話でした。しかし、この辺りに渡し舟を必要とする川など見当たらず、一体何の話か分かりませんでした。

ところが、午後二つ目の参観先の東円寺でようやく話しの内容を理解することができました。

東円寺は田村十字路から下谷をとおり、伊勢原駅に続く、県道四四号線、つまり、江戸期の大山道沿いにある臨済宗の寺院でした。普段からよく見かける山門があり、小田厚道路、伊勢原インターを平塚側から通り越したすぐ左に見える寺です。かつて、この寺の山門の右側に大きな松の木があり、渡し舟をつないだので、「舟つなぎ松」と呼ばれていたということです。松は伊勢湾台風(?)で倒れてしまって今はありませんがその記念碑が最近たてられたと言うことです。台風の話のついでに、この寺にある宝筐院塔の相輪(最上部の棒)がこの度の東日本大震災時に地震により二つに折れ、落下していました。修復は難しそうでした。

説明によれば、この寺のすぐ東側にある「伊勢原インター」付近は江戸期、沼地で、旅人を舟で渡していたということです。旅人の中には江戸から来た「大山詣」の熊さんもいたことでしょう。東円寺はその船着き場だったのです。私の居住地にある地名「馬渡」も同じような舟着き場であったという話と結びつき、とても興味を感じました。そこで、家に帰り、明治初期の地図で検証した所、この沼は大句村、馬渡村、東大竹村、沼目村と続いている一大湿地帯の主要部と分かりました。このことに気付き、私は大いに興奮してこの記事を書いています。その上、人形劇「こがの渡し」の話も理解でき、この辺りの江戸期の地勢も想像できたことに大きな喜びを感じました。

今度は岡崎地区の史跡を調査したいという強い意欲がわいてきた史跡めぐりでした。

写真は当時の舟つなぎ松と記念碑及び平塚側から見た山門です。

池端:御嶽神社・石尊宮塔からの大山眺望


6月4日(土)、沼目に住む友人に誘われ、市教育委員会主催の「大田、沼目地区」の文化財ウォークに参加しました。9時から午後3時までと言う長丁場でした。妻に作ってもらった握り飯とデジカメをリュックに入れて、総計6kmの道のりをゆっくりと歩きました。
 沼目や大田地区は文化財の目からは余り知られていないので、見るもの聞くもの皆、新しい。歴史解説アドバイザーのお仲間もたくさん関係しており、皆調査したことを全部話したくて、説明には制限付きの説明時間を大幅に超えていました。主催者も参加者も元気の素を頂いたようです。
 ところで、このウォークで二つの大山関係の史跡にでありました。一つは「池端」の「御嶽神社」境内にある「石尊宮石塔」です。嘉永3(1850)年に、不動明王坐像石塔と一緒に勧請されたと風土記稿に書いてあるという。社宮の右手のこんもりとした森の中にあり、今は大山は望めないが当時は大山が正面に見えたはずです。
 写真は「石尊宮石塔」の木々を通り抜けた、延長線上から撮影した大山眺望です。その下の写真は「石尊宮石塔」です。