2011年9月8日木曜日

平塚市北豊田で大庭氏所領の記念碑に出会った!!


 先日、大山道に詳しいN女史に連れられて、大山道の灯籠や道標の位置確認のため平塚市北豊田を歩いた。 途中、道に迷い、新幹線の線路伝いに歩いていると、一戸建て、平屋の借家が並んでいる一角に、1mくらいの金属でできた四角柱を見つけた。<写真参照。上の写真の右上は新幹線。金属碑は電柱の向こうに微かに見える2本目の白い四角柱である。>

 周囲は雑草で覆われいたがその金属柱は真新しく、錆や汚れもなく立っているが文字が見える。長い雑草を引きちぎって、よく見ると「大庭塚」と書いている。まさか、藤沢の大庭氏の関係する記念碑とは思わず、側面の文字を見ると「この辺りは大庭氏所領であった」と書いてある。<写真参照>


 
  N女史も知らなかったらしい。
 大庭氏と言えば、藤沢の「御厨」を所領していた、相模では有力な平家方の武士団の長である。その勢力の大きさに対して、三浦義明の弟で、その強さから悪四郎と呼ばれた「三浦義実」が三浦を飛び出し、大庭、梶原と言う有力武士団を突破して、相模国大住郡(現伊勢原市)に根拠地を置いた時、「合点がゆかず、その理由がわからなかった。」と永井路子氏は「相模のもののふたち」の中で述べている。すぐに、中井を根拠地にしていた中村宗平の娘と結婚し、中村氏の婿となったからだと分かって、謎が解けたと述べている。
 大庭氏については深く知らず、伊勢原から20km以上離れた存在で、それほど大住郡には影響ないだろうくらいにしか考えていなかったが、目と鼻の先に「大庭氏の所領があった!」と知り、永井氏が岡崎義実の転身を不思議がったのも無理はないと改めて実感した。
 「北豊田には豊田郷は大庭氏の開墾荘園所領であり、大庭景宗の次男豊田次郎景俊が「相模国豊田庄」として領した地であり、相模西南部の中村党領地と接する大庭氏の最前線で、国境を持つ最重要地点でもあり、一族の重要な役割を担って居を構えていたものと想定できます。」とネットにも書かれたいました。
 しかし、このことは旧知の事で、地域以外の方にはなじみがなかったと言うことで決着をつけましょう。
 ただ、このことを知ったことにより、岡崎城の近隣に住むブロッガーにとっては、岡崎義実と中村党についての実地巡検をしたいという思いが大きくなったことは言える。

大庭氏については、次のHPを参考にしてください。

http://www.ne.jp/asahi/sayyou/house/history/hobatuka.htm

http://www.geocities.jp/jytkb817jp/mygokenin/z-toyodakageyosi.html

http://www.ktmchi.com/rekisi/cys_61.html

http://www.asahi-net.or.jp/~pu4i-aok/walking2/kaizouji/jyufukujij.htm











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