2013年4月29日月曜日

佐渡金山の夜桜・受信

 送信者、伊勢原観ボラT・Kさんのコメント
<4月は、富山、三春、会津、と毎週桜満開に恵まれましたがこれが最後、佐渡金山跡の桜です。これも満開ですが、表示の日時データどおり、平日にこんな山奥に誰も来ませんで、、客は我々ツアー客16名のみ、電気代が勿体ない。
 金山最盛期の往時を偲んで夜桜を堪能しました。 >
 

 <My Comment>
 30歳代、佐渡出身の方の「佐渡おけさ」の踊りを見てから、私の「佐渡おけさ」の歌で踊ってもらいたいとずっと思っていましたがまだ、成就していません。 「おけさ」の静かな情緒が歌っていても涙が出ます。
 

2013年4月28日日曜日

「KAZESAYAGE」:3冊、伊勢原図書館蔵書棚へ

 先日、「KAZESAYAGE」(平地編)8号と14号が伊勢原市立図書館に寄贈したところ、受け入れる旨の葉書を頂きました。すでに、一昨年、「KAZESAYAGE」(平地編)5号を受け入れて頂いていますので今回で3冊目となります。
3冊とも、世田谷にある出版社「風人社」のご厚意により、大山に関する拙著が掲載されているので、何とか、後に残したいと思っていたので、とても満足しています。
3冊の調査研究の内容は、次のとおりです。

①「KAZESAYAGE」(平地編)第5号 2010年5月20日発行・発行所 風人社
 
   「その山影を見てみたい」各地から見える大山  著者 斉藤勢吾

<第2期歴史解説アドバイザー養成講座の卒業研究として取り上げた「関東各地から見える大山の山影」をまとめたもの。仲間の皆さんの協力を得て、埼玉県からの貴重な山影が掲載されています。>

②「KAZESAYAGE」(平地編)第8号 2011年4月13日発行・発行所 風人社
 
   「津久井大山道・日向川~石倉橋・再探訪ウォーク検証報告」  
                                    著者 高橋憲治・斉藤勢吾共著

<日本中の歴史街道を歩き尽くし、その記録をネット上に公開している高橋氏が、「津久井からの大山道の一部が分からない。」という疑問に応える為、斉藤が、「アドおおやまみち」の皆さんの指導の下、高橋氏とともに検証したその報告書。風人社さんや道研究家の参加も得て、貴重な記録となっています。>

②「KAZESAYAGE」(平地編)第14号 2013年1月11日発行・発行所 風人社
 
   「権田直助 波乱の生涯」      著者 斉藤勢吾共著

<医師、国学者、草莽の志士として活躍し、晩年、大山・阿夫利神社の祠官となり、大山復興の祖と称されるほどの貢献をした権田直助の生涯を追った記録。世間では様々な理由で、権田直助のことは話題に上ってこなかったが大山の地から出版した「国文句読考」という著作は、我が国初のの句読点の著作として、後世に大きな影響を与えている。>
 

2013年4月25日木曜日

福島より、満開の鶴ヶ城の桜の写真を受信しました

福島・鶴ヶ城の桜
平成25(2013)年4月25日(木)、突然、福島、鶴ヶ城の桜満開の写真を受信しました。送信者は伊勢原観ボラのT・K氏。今年1月、いわき市のスパリゾートに連れていいてくれた方で、9月には、ゴルフ仲間8人とのスパとゴルフを引率してくれる方で、元気なシニアです。現在、その打ち合わせ中ですので、見事な桜を見せたくて、送信していただいたのだと思います。驚いたと同時に嬉しかった。
 なんでも、スパリゾートがお好きで、いわき市の震災復興にも尽力されている方だそうです。
 福島の花だよりは盛んに報道されているが私だけの花だよりは初めてです。勿体ないので、歌仲間やゴルフ仲間に見てもらおうと、直ぐ、ブログにUPしました。
9月の参加者も10名と、超満足な人数になったので、今日、途中経過を報告しようと思っています。
T・Kさん、よろしくお願いします。
 

2013年4月23日火曜日

「天空・頭上の虹」に73年目の驚愕!!

 「天空・頭上の虹」と言っても、直ぐにはご理解いただけないかも知れない。虹と言えば、西か東の空の端にかかるものと思っていたが、今日の虹は、頭上の太陽を囲むように架かっている。
 発見したのは、家庭菜園で一緒に草取りをしていた細君。米軍の戦闘機が3機、厚木のほうに物凄い爆音で去って行ったのを見届けていると、「アッツー!!虹!!」と細君が叫ぶ。同じ方角を見やると、太陽の下半分を囲むように、空の真上に「虹」がかかっている。二人とも「初めてだ!!」と会話。「写真!写真!」と大急ぎで自宅に駆け込み、玄関先で撮影。
 電信柱があって思うような画面にならなかったが撮影に成功。「70年間、見たことが無い!!初めて!!」と細君は興奮気味。
 と言うことで、季節に関係あるかどうかわからないが、NHKのニュース番組の「季節の写真」に投稿。我がブログにも投稿。
 昨年の金環食も投稿したので、一寸した「天体ショー」を撮影したような、高貴な気分です。

2013年4月19日金曜日

第10回「歴アドゴルフコンペ」報告<東京cc>

南8番富士の眺めが最高のホール
「歴アドゴルフコンペ」と言うのは、「いせはら歴史解説アドバイザー」第2期生のゴルフ好き仲間のコンペである。現在会員は14名。歴史解説アドバイザーは6名であるが友人、知人を巻き込んで、ルーズなルールで、ゴルフを楽しんでいる。遠くは、横浜・藤沢から参加。スコアは83~115迄と幅が広い。一応、優勝者は減らし、最下位者は増やすという独特なハンディ戦で遊んでいる。5年目を迎えた今回は東京cc(パー72、6111m)で行い、63歳の、若い仲間も加入があり、言いたい放題のにぎやかな大会となった。ベスグロは83。

東INスタートホール
次回は、「五周年記念大会と東北大震災復興支援」の企画として、いわき市の「スパリゾートハワイアンズ・コレストヒルゴルフ倶楽部」で開催予定。
 期日は9月25日(水)~26日(木)の宿泊で行い、1日目はハワイアンダンスショウー見物。2日目はゴルフ。バイキング2食付の、込々で、15000円。株主さんの引率で、格安の企画。すでに、1組と女性軍の参加もあり、実施が可能になった。うれしい限りである。
 もう2,3人参加して欲しい。


スパリゾートハワイアンズURL  http://www.hawaiians.co.jp/

2013年4月14日日曜日

「大山・石倉・不動尊道標の最初の設置場所を探る!」―伊勢原郷土史研究会講演会を聞く。             



講演する宮崎氏
 413日(土)表題のような講演会が開催された。講師はいせはら歴史解説アドバイザー1期生の宮崎武雄氏。宮崎氏とはお互いの調査研究発表会で参加し合い、研鑽を高めてきた仲であるので、今回も勇んで聞かせていただいた。
 表題に関することは、既に「石倉の不動尊座像道標について・・・大山道の変遷と不動尊座像のあった場所」と題して、「KAZESAYAGE<平地編>第13号」(風人社 2012727発行)で発表されていますが直にお話を聞く機会がなかったので、楽しみであった。



石倉自治館前にあった道標
(H22頃西部氏撮影)
鈴川に移された現在の道標。
(H24・4斉藤撮影)
 「KAZESAYAGE」という冊子をご存知ない方も多いと思いますが世田谷にある「風人社」という出版社の、A6版、15P、1冊300円のミニコミ誌である。「風人社」は、地図関係の出版も手掛けており、その関係で「道」に関する出版物も多く、その中でも、「大山道」に関する地図や書籍に力を入れている。
石倉自治館前の道標紹介文
   




                                                          表題の「不動尊座像道標」は各地からの大山道が収斂する「石倉三差路」にあった地域の自治会館の前にあり、関係者ならだれでも知っている大山道道標としては有名で、大山道を象徴する道標であった。日向石で作られていたのか、傷みも激しく、すでに両腕もなくなっていたので少なくとも江戸期に作られたであろうと、だれでも想像していた。さらに、この道標はその後の道路拡張などで、ここに移設されたものであることは皆承知していたが最初、どこに設置されたかについては、誰も知らず、あまり追及する研究家も少なかった。

  いせはら歴史解説アドバイザーの一期生で、大山研究に集まった「アドおおやま」の仲間たちは、このことを手掛け、議論し合ったが結論は出ず、今回の講師の宮崎氏が継続案件として、頑張っていたらしい。




参照地図(道標の移転場所の変遷)
 このブログでは、研究成果の詳しい内容は書けないが、要約すると、次の推論から結論を導き出したという。

   地図の検証☛古地図(山口家に伝わる古地図の検討)・明治期(軍事用)・大正期(東海道線鉄道設置に伴う参詣道の変化)等の検討と比較。

   写真の入手☛当該道標の写真を入手し、看板や文字の書き方、町村合併の変遷などから年代を推定。
最初に設置された場所(大正期) 
(写真提供:山口靖之氏)

   道標の文字の検討☛「おおやま」という地名が書かれていないことから「山帰りのための道標である。」と推論。☛道標に書かれた案内先の地名から不動尊座像の向きを検討。☛移設の度に、座像の方向が変わっている。

以上のことなどから、「参照地図」のように結論付けている。

宮崎氏は「全く、個人的な見解であるがこの地図の位置であるとすべての疑問が解決する。」と謙虚に話されておりますがそこには、伊勢原市大山で生まれ育った土地勘や世間話が大きな役割を果たすと同時に、郷土を思いやる強い心が感じられ、とても好感のもてる講演でした。

 結論はどうあれ、資料収集、解釈、推論などの過程は、推理作家を思わせる見事な腕前で、すっかり感心させられた。

 その後、同道した昼食時、「神奈川県では鎌倉、箱根に続く観光地として、<大山周辺>を取り上げ、キャンペーンを始めているがそれには、<大山や大山道の表現化(案内板や説明版)の工夫>が大きな役割を果たす筈なので、案内版等で個人的にも努力したい。」と話されていたが当ブロガーも協力したいと思っている。

 なお、詳しい内容は次の風人社のHPを見てください。






 

2013年4月11日木曜日

相州大山(阿夫利山)異聞                   <その3、四の銅鳥居と豆腐坂>

 先ず、この写真を見ていただきたい。地図8番の、大正期まで存在した「四の銅鳥居」付近の様子です。この写真は明治期の絵葉書にある「相模大山・良辯の銅鳥居」で、『鳥居付近は広場となっており、道の両側の石積みの台座の上には、谷に突き落とした子獅子の様子を見守る石彫りの唐獅子があった。道の両側にある「良辯滝」「良辯堂」は、右側にある鈴川を渡った先にある。』と説明されている。
 鳥居を潜り、右に上っている石段は、現在は舗装されている通称「豆腐坂」である。この石段は、先ず、6段あり、その上にある宿坊が「大住山荘」です。この山荘の先導師さんはアドバイザー講座の講師で何度も大山に関するお話をお聞きしたものである。
 この日も、お孫さんを連れて通りかかり、この写真の説明を、じっくりとお受けすることができた。
 


現在のバス道路はこの鳥居の右側の畑地帯だったそうである。旧道は現在のバス通りの左側に沿って1mほどの部分だったようです。
 私は、旧大山道と現在の様子とが、何度同じ話をお聞きしてもわからなかったが、今回の巡検ウォークで、胸の支えが取れたように、ストンと理解でき、十分説明できる能力を持ったような気分になった。
 また、この鳥居は現在はないが両側にある唐獅子像は、持ち主の「村山坊」さんの庭先に移設されている。
村山坊に移設されている唐獅像

相州大山(阿夫利山)異聞                   <その2、農業用水水源探索>

 「水源探索ウォーク」と言うお誘いを頂いた時は、大山のケーブル駅近くに水道水の水源があることを知っていたのでが飲料水の水源かと思っていた。しかし、実際は農業用水の水源の探索であることを知り、私には全く未知の世界でしたので、その意味さえ分かりませんでした。
 そのことをようやく知ったのは、皆、「腹が減ったなあ!!」と言い始めた12時近くで、新道となった「県道大山板戸線」に入り、少し下った所でした。その辺りに、農業用水の取り入れ口があるという。地図では26番「梅原用水取り入れ口」で、堰でもあるのかと思ったら、「トンネルを掘ったのだ。」と言う。「まさか!?」と思ったが1m位の穴が見えた。しかし、この穴は写真に撮り損ねた。
明治期、子易地域の用水確保のため、地元の農民が掘ったのだと言う。トンネルの大きさは人が中腰で歩けるほどの大きさで、人力で掘るための最低の大きさのような気がする。
 取水口は三つあり、残り二つは、29番の「トゲノ用水取り入れ口」と「33番の大坪用水取り入れ口」という。この三つの取り入れ口から、トンネルは、鈴川の山側に沿った棚田の、その山側の農道に沿って、水が流れるよう、トンネルも続いている筈である。途中には、トンネルの内部が詰まった時の、作業用の穴も所々に開いているという。
 全く思ってもいない用水路の話に、ついて行けず、理解も記録も十分できなかった。しかし、自分なりに地図上に黄色の線で、水路の道をつけてみた。しかし、多分に見当違いかもしれない。

トンネル内作業用入り口
 
下流に下ってゆくと、所々、トンネルが地上の堀に流れ込み、用水の利用の様子がわかる場所もあった。
 この用水トンネル掘削に関わった地権者は、かつて10名ほどだったが現在は4人であると聞いた。
 
 
 
 10年ほど前、伊勢原市の」農政課で企画した「棚田オーナー制度」に参加したときも、このあたりの棚田であった。そして、最近、この棚田の下から、厩を持った武家屋敷跡が発掘されてもいるので、古くから人々が住み始め、居心地がよかった地域かもしれない。
 とにかく、このトンネル掘削による農業用水の確保には驚かされた一日であった。
 

トンネルから地上の樋へ
どうしても、もう一度巡検に回らねば理解不能でした。




2013年4月10日水曜日

相州大山(阿夫利山)異聞                   <その1、四つの廃寺探索と茶湯寺>


平成25年4月10日(水)。縁あって、いせはら歴史解説アドバイザー第1期生の皆さんで作られているグループ研究チーム「アドおおやまみち」の「水源地探索ウォーク」と言う「調査研究巡検」に同行させていただく機会に恵まれました。

総勢8名のウォークであったがお仲間に、大山に少年期からお住まいの方が二人おられ、思いもかけない遺跡や現状を知ることができ、同行できたことに感謝と感動を隠すことができなかった。

したがって、このウォークを報告することに当たっては、一文では混同するので、
その1、四つの廃寺探索と茶湯寺。
その2、農業用水水源探索。
その3、四の銅鳥居跡と豆腐坂
の3つに分けてUPLOADすることにしました。

大泉寺跡
 最初の案内場所は路線バス大山行きの「良弁滝」で下車、旧大山道から「旅館 かめい」の正門に向かって入り、右に曲がった枝打ちした杉の葉が重なっている杉木立の山の中。しかし、ここは日向に通じる山道だという。そんな中をしばし歩くと数基の石塔があった。(写真参照)その中の一つは「無縫塔(住職の墓石)」です。ここは、「新編相模国風土記稿」にも記載されている「大泉寺跡」なのだそうです。そんな話は聞いたことがなかったので、びっくり。その上、「案内説明板」も設置されている。公的な設置かと思ったら、「アドおおやまみち」のメンバーが谷に落ちていた石塔を運び、土台に載せ、そこに、自費で「説明版」も作ったものだそうです。公的には、誰も保存に関係していないという。
新編相模国風土記稿巻の五十


アドおおやまみちの皆さんが建てた看板
『散乱している丸太や石塔をもう一度きちんと整理したいものだ!!』という誰かの言葉に、みな頷いていました。ブロッガーもできれば手伝いたいと申し出た。

「風土記稿」によれば「大泉寺」は黄檗宗で、「時の鐘」も打っていたということです。鐘堂もあったということになる。

黄檗宗はご存じのように、17世紀中葉、中国僧隠元が伝えた禅宗の一派で、京都の満福寺を本山として、徳川家綱から寺領10万坪与えられ、一時盛んになったが、徳川幕府の寺請制度の中では長く繁栄することができず、また、明治期の一時期、禅宗から外されたりしたので、廃寺になったケースも多くみられる。

まだ廃寺にはなっていないが、伊勢原では上平間にある住職のいない「三観寺」も黄檗宗です。





西岸寺跡
廃寺といえば、その後案内された「西岸寺」は、とても強い印象が残った。大滝荘の前の石段を登り、しばらく行くとお寺とも思えないバラックがありました。そこが「西岸寺」だという。かつて、現「茶湯寺」のご住職のご舎弟さんが住職をされていたという話でした。ガラス越しに中をのぞくと、奥の方に『仏壇』らしきものが見えた。この寺は浄土宗の寺で、昭和27年、「相頓寺」、「西迎寺」と「西岸寺」の三寺が合併して「西迎寺」の場所にできたのが「茶湯寺」だそうです。しかし「相頓寺跡」は印象に印象に残っていない。もう一度、行ってみる必要がありそうです。







5番が大泉寺跡




 
11番が「相頓寺跡」15番が「西岸寺跡」
 



2013年4月6日土曜日

初めての<圏央道・愛川IC><千鳥ヶ淵ソメイヨシノ>          <スカイツリー展望台445m展望回廊>

 4月5日(金)農協観光企画の「千鳥ヶ淵ソメイヨシノと東京スカイツリー」観光に、ご近所さんとご一緒に参加。ゴルフは町内会でやっているがご近所さんとの観光は初めて。細君が地域の「健康体操」の世話役なので、私もお相伴したという感じ。最後は「スカイツリー」で行き違いがあったが初体験が多く、楽しかったというのが感想。
 

厚木市中三田から見た大山
行程は<7:00・JA伊勢原→厚木→愛川→圏央道・相模原愛川インター(農協観光もバス会社も参加者も初体験)→皇居・千鳥ヶ淵(桜見学・ソメイヨシノは散り、しだれ桜が咲いていた。英国大使館を感激して撮影。九段坂を通ったのも初体験。ゴールデンウィークに徒歩で散策する予定。)→東京ベイ有明ワシントンホテルで洋食バイキング(1500円らしい)。単独で東京ビッグサイト見物。)→浅草寺→浅草駅→東京スカイツリー駅→東京スカイツリー展望デッキ→・・・・・・・→19:00・JA伊勢原帰着>
 以下写真で・・・。

圏央道・相模原愛川インター料金所を入ってすぐの風景





東京ビッグサイト西棟

 
千鳥ヶ淵・イギリス大使館正門
千鳥ヶ淵(鵜がいた)
回廊展望台(445m)から隅田川を望む
回廊展望台の看板写真(大山は箱根山の右)



大山展望(パンフレットから)





東京「そらまち」からスカイツリーを見上げる。