2013年5月27日月曜日

「いわき市スパリゾート・フラガール近況報告」      <復興支援でいせはら歴史解説アドバイザー有志          9月に訪問>

 9月25日と26日の2日間、訪問するだけでも「いわき市復興支援の一助」にもなると言うので、いせはら歴史解説アドバイザーの有志とその仲間10名がいわき市のスパリゾートを訪問し、ハワイアンダンスやゴルフを楽しむことになっています。
 経費は、横浜から無料の送迎バスを利用し、ダンス見物やゴルフも含め、宿泊して14800円。世話人はスパの株主で、スパ支援者の、伊勢原観光ボランティアのKさん。ハワイアンダンスの愛好者でもある。
 そのKさんより、「最近のスパ・フラガール」の活動の様子がメールで送られてきた。フラガールの一行は全国の小学校でフラガールキャラバンを始めたらしい。その様子である。

 Kさんのメールより

『小学生3,4年を対象にした学校キャラバンが始まりました。
 1000校余の応募がありましたが現実には週1校程度しか廻れません。
 添付は「サンデー毎日最新号」の巻頭グラビア5ページの内の3枚です。
 麻衣さんもすっかり全国区になりました。参院選に立候補したら上位当選間違いありません。』
 
 


人気者のリーダー麻衣さんです

2013年5月26日日曜日

文化財ウォーク「出府諸用控に見る江戸への旅」    地代官山口作助の歩いた道・第3回目無事終了

平成25年5月25日(土)「NPO雨岳文庫を活用する会」主催の、表記の文化財ウォークの第3回目が無事終了しました。
 第3回目は「四ツ谷から藤沢宿へ」と云うテーマで、安政6(1859)年4月3日(新暦5月12日)、作助が歩いた道の、辻堂駅から遊行寺迄の約5,5kmを辿りました。
 参加者は37名。スタッフ、16名。3班に分かれて、9時40分出発。
 大山一の鳥居⇒東海道⇒養命寺上方見附跡⇒白旗神社⇒義経の首洗い井戸⇒永勝寺
 ⇒蒔田本陣⇒遊行寺橋⇒遊行寺(総門・板割浅太郎の墓・敵味方供養塔・中雀門・一遍上人像
 ・本堂)⇒長生院⇒江戸方見附跡

今回は作助の「出府諸用扣」の原文を掲載します。

この詳しい内容は全部仮的さんのブログhttp://jia4de.exblog.jp/20273952/


以下、ガイド風景

辻堂駅階段下で受け付け

上方見附跡

白旗神社鳥居
白旗神社・義経の碑

永勝寺・飯盛り女の墓所

清浄光寺(遊行寺)冠門

板割浅太郎の墓所
中雀門


長生院・照手姫のガイド風景




江戸方見附跡・これが最後
http://jia4de.exblog.jp/20273952/

東日本大震災復興支援で、2回目の気仙沼・大島訪問  <その4・大島からの教訓と島の英雄の話>

 帰りの車中で、私たちは二つの教訓を得た。二つとも、帰りのフェリーで、大島の若い女性の話からである。この話はぜひブログにUPしてほしいとのM女史からの依頼もある。
 朝7時頃の大島からのフェリーは通勤通学客で一杯である。その中に、昨晩大島復興イベントの協力者として集まってくれた若い女性がいた。彼女は、昨夜の顔とは違って、満面の笑みで私たちに手を振り、挨拶しながらフェリーに乗り込んできた。気仙沼にパートの仕事に行くのだという。
それから、気仙沼に着くまでの30分間、M女史が彼女と話し込んでいたらしい。降り際、「また、凄い話を聞いちゃった。車の中で話すね。」と報告してきた。その話二つが、私たちの教訓となった。
 一つは、若い女性の父親の話である。彼女の父親は3年ほど前に亡くなったらしいが、亡くなる前、「最近、海の様子がおかしい!」と盛んに家族に話していたという。 
 「一部の海の色が違って見える。そこから、煙のようなものが浮かんでいる。最近取れる魚も変わってきた。」と話していたという。津波はそれから3年後やってきたという。彼女は「予兆があった」ことを告げたいらしい。しかし、地震学者はこう言う手の話をどう扱うのだろうか。歴史学者なら「古老の話」として、大切なデータとなる。しかし、自然科学者は数的なデータ以外は論外とするだろうか?地震学者がこの手の話を沢山集めて、「地震予報」のデータとしたら数字より、面白い結論が導かれるのではなかろうか?
 教訓その1は、私たちは素人も、地震学者の数字だけでなく、ナマズの話のよう巷の話を沢山集めれば、予知知識にできるのではないか!?ということ。
 二つ目は復興時、彼女の家は港の近くにあったが電気が通じたのは一番遅かったという。それも、街灯は来ているのに家庭には来なかったのだという。彼女は何回も、電話などで電気会社に連絡したが埒が明かなかったという。あるとき、工事中の作業員にそのことを話したら、「それは。そうだ!」と話に乗ってくれ、それから1週間後に、彼女の居間にも電気が来たという。
 教訓その2は、「遠い役所の机からは何も見えない。現場に行かなければ真実は見えない」と言うことである。私たちも大島にやってきて、島を直接見ることの大切さを確認した。

 最後に、もう一つ「大島の英雄の話」を・・。
」冊子をスキャンしてので、それで見てください。
昨年の帰りの船は、この話題の菅原さんの「ひまわり号」でした。
詳しくは、次のURLで・・・。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20110411/tsunami
 
 
 
 
 

菅原 進さん

2013年5月25日土曜日

東日本大震災復興支援で、2回目の気仙沼・大島訪問  <その3・ウニ漁解禁の話>

船の準備
24日の夕方、明海荘のご主人がトラックに小舟を繋いでいた。この日、突然漁協から連絡があり、明朝4時から7時までウニ漁を解禁するという。急いで準備中で、明朝、4時に出かけると言うことだった。しかし、ご主人はウニ取りの経験があまりないという。一緒に乗りたかったが船に酔うことと、帰りの出発が7時であることなどで、港から眺めることになった。
 翌朝、6時ころ港に行ってみた。ウニ漁の漁師さんがいたので聞いてみると「ウニはまだ小さい!」と教えてくれた。明海荘のご主人の船がどこにいるかわからなかったが港に戻ってきた船頭と会話など楽しみ、戻った。
 帰りがけ、昨日植えた花に水をやり、朝食も済ませ、ロビーに集まると、「一寸、待って!!」と女将さんがボールを抱えてやってきた。ご主人が「ウニ漁」から戻ったのでウニを食べてほしいというのである。皆、大喜び。思ってもいなかったので、ワイワイといただく。ウニは「ムラサキウニ」と言う種類だそうである。

港の近くでウニを捕っていました。
外の船に近くで、収穫物を見せていただきながら記念撮影。そのあとは、フェリーの時間もあるので、急いでアクセルを踏み込んだ。わさわさした朝だったが今年初漁の、取れたてのウニを頂き、感動してフェリーに乗った。
 
 


採ったぞーー。宿のご夫婦
さあ!食べてください!


大きいウニと小さいウニ



東日本大震災復興支援で、2回目の気仙沼・大島訪問 <その2・大島復興イベント計画>

お茶のみ工房の看板と入り口
夜になって、復興イベントの話が始まった。集まってくれた方々は、明海荘の別宅で「お茶(じゃ)のみ工房・子葉輝(つばき)」を結成し、仲間活動しているメンバー4人とお孫さんを目の前で奪われ、失意のどん底からようやく立ち上がったご夫婦の6名。
 M女史からの提案は、フリーマーケットや歌などでお互い声を掛け合い、助け合って、沢山の方々と結びつき、お互いに励まし合おうと言う内容。しかし、集まった方々は、バザーも、フリーマーケットも経験したことがないと言われる。今まで、島から出て、そういう機会に出会ったこともないらしい。しかし、励ましてくださる全国の皆さんの力を借りながら、頑張ってみようと言うことになった。
期日は10月初め。実行委員長は今年の3月、島の小学校を退職された歌好きの校長先生なので、皆安心したのかもしれない。その校長先生は明海荘の女将さんの担任でもあったという。フリーマーケットに並ぶ商品は全国から届くかもしれない。
 また、翌朝には、お孫さんを奪われた向かいの家の女将さんがヤーコンの漬物を届けてくれた。以前は、近所の方とお話も出来ない位、落ち込んでおられる方とは思えないほどの、笑顔であった。
 
 

 


明海荘の入り口にはこんなチラシも

明海荘の入り口にはこんなチラシも

明海荘の入り口にはこんな張り紙も
なかなか見つからないそうです。

東日本大震災復興支援で、2回目の気仙沼・大島訪問 <その1・大島;明海荘へ>

 5月22日(水)~24日(金)、3日間かけて、2回目の気仙沼・大島訪問に行ってきました。        
 クルーは仮設住宅の高齢者孤独死防止活動で、大島と深い関係を持つようになった元教員のM女史がリーダーで、伊勢原ライオンズクラブのAさんが配車と運転担当、私は付き人のような関係の3名です。

気仙沼港。高い建物は女子高。
津波は女子高の床下辺りまで来たらしい。
目的は、昨年植樹した桜や花壇への植栽、さらに、大島の島民の絆を深めるイベントの開催に関する提言・助言などが中心です。
 前回と同じ様に、気仙沼についたのが朝、6時ころ。気仙沼はあまり変わっていなかったが道路は嵩上げされており、少しは動いているように見えた。7時のフェリーで大島へ。大島の港もあまり変わっていないが船の数は増えていて、活気が戻ってきたように見えた。
 島の復興活動の拠点になっている「明海荘」へ。朝食をとり、花植え。雉が「ケーン」と鳴いて、私たちを応援してくれた。花植え終了後は入浴と睡眠。身体が未だ車中のように、浮いている感じがするが何とか眠る。

分かりにくいが昨年植えた水仙が咲き終わり、グラジオラスが芽を出している。
花壇
大島の漁港も船やトラックが多くなっていた
夕食は6時ころ。女将さんの「かよさん」が付き合ってくれた。夕食後、イベントに参加してくれそうな仲間を呼んでいること、自分の娘さんが名古屋の桜ヶ丘高校に進学し、ゴールデンウィークに担任の先生が家庭訪問に来てくれたこと、その娘さんの作文が新聞に載ったことなど、明るい声で話してくれた。娘さんが遠い桜ヶ丘高校に希望して進学したのは、震災後、桜ヶ丘高校の生徒さんがやってきて、復興を手伝ってくれる姿を見て、娘さん自身が決めてのだと言う。驚いたのはご両親らしい。それまでは、部屋に閉じこもり気味だった娘さんがしっかり世間を見ている姿に感動したという。地元新聞に掲載された娘さんの作文もコピーしてくれた。中3には見えないしっかりした文章で皆、驚いた。

「明海荘HPアドレス」 http://www.k-macs.ne.jp/~akemiso/



明海荘の娘さんの新聞掲載作文。全文ではないが一端は伺えます。













2013年5月18日土曜日

「まが玉造り」のお手伝い                <伊勢原市比々多神社「まが玉祭り」で>

 5月18(土)と19日(日)の2日間、三之宮・比々多神社では今年もにぎやかに「勾玉祭り」が行われました。

「まが玉造り」のテントをお祓いしてくれました。
この祭りには、毎年、境内の一角にテントを張り、「まが玉造り」の体験学習の場を設定し、いせはら歴史解説アドバイザーが指導に当たっています。今年も、仲間と参加。参加者は土曜日だけで70人ほど。小学生以下の子供たちと保護者がほとんど。当方は10人ほど指導。孫と遊んでいるような、楽しい一日でした。
 明日も半日手伝います。
 午後は伊勢原文化センター大ホールで、「第九合唱団」の初顔合わせです。


二人がかりで指導。

2013年5月16日木曜日

第3回「作助ウォーク」ガイド地・遊行寺支院「長生院」の照手姫伝説余話

 昨日、第3回「作助ウォーク」下見が終了し、しっかりと打ち合わせも行いました。
今回のウォークガイドの話題の中に、各地に残る「照手姫伝説」があります。下見では、その一つの伝説を中心にお話しますが詳しいガイドさんはあちこちに残された伝説も話します。
 と言うことで、第2班のガイド、原さんより、また新しい「照手姫」伝説の情報が入って来ましたのでお知らせします。

余談

 先日、平塚の県立花菜ガーデン(平塚養護学校の近く)に行ってきました。

 なんと照手姫にちなんだ花桃の木がありました。

 照手シリーズとして命名されているようです。

 その話は相模原市横山に伝わる話となっています。 
 
 
 

「上溝の照手姫の話」 URL    http://www.rekishi.sagami.in/terute.html

2013年5月13日月曜日

二宮氏館跡「知足寺」訪問                  Exploring cultural heritage in the elderly couple.      


 3月彼岸過ぎの中村宗平館跡「殿の窪」を漸く探し尋ねた足で、宗平の四男友平の継承地、二宮の地の館跡「知足寺」を訪問。大体の土地勘はあったので、直ぐに発見できた。「知足寺」は吾妻山の西部、二宮町二宮にあり、駅から500m程の、徒歩でも十分歩ける場所にある。


知足寺本堂
 四男友平が何時、継承したかはっきりしないが、友平は平安時代末期から宗平から継承したらしい。その後も、その子友忠や孫の光忠の名は、しばしば吾妻鏡に見えているという。友忠は曽我兄弟物語に出てくる兄弟の姉と婚姻していることから、また、友忠の子、光忠も頼朝上洛の随兵として出てくる。友忠は曽我兄弟の異父兄弟の姉(花月尼)と結婚している。

知足寺山門
 「相模武士」(湯山学著)によれば、二宮荘は清盛が太政大臣になった仁安2(1167)年頃、藤原俊成の女(八条院三条:八条院暲子に仕えた)が異母姉妹に京極局から寄進された荘園であるという。また、二宮氏は川勾神社の社領を左右し、友平は川勾神社の宮司(神主)職を掌握していたらしい。
 
 二宮(川勾大名神)神社は延喜式でいう、位の高い古社であり、一宮が「国鎮守」に対し、二、三宮は「郡鎮守」であるから、相模国衙の有力な在庁官人であった中村宗平の子、二宮友平が神社と深くかかわったいたことは考えられると述べている。

知足寺は友平の建立ではなく、友忠の妻花月尼が曽我兄弟を弔うため建立したという。そこは、友忠の居館跡であった。塩海山花月院と号している。塩海は「しおみ」で、後、荘園化された二宮の公領「霜見郷」である。
 上記の事情については、ここでは、詳しく語れないので、後日、HP「ISEHARA・おもてなし隊の連絡帳」で報告したい。

曽我兄弟の墓石








地図URL
http://www.mapion.co.jp/m/35.2996711_139.2576469_8/v=m6:%E7%9F%A5%E8%B6%B3%E5%AF%BA/














2013年5月6日月曜日

 「八丁堀同心・与力組屋敷跡」へ遂に到達    Exploring cultural heritage in the elderly couple.                            

 前投稿記事と同じ日、正月に行き損ねた「八丁堀与力・同心組屋敷跡」の探索に向かった。手がかりは、正月に撮影した「地域地図」だけである。この案内地図は、亀島橋にあり、そこには「堀部安兵衛武庸の碑」が建ってり、例の堀部安兵衛、36人切りで有名な場所らしい。
 目印は、「京華スクエア」と言うビル。屋敷跡はその近くにあるらしい。もう一つは、東京駅八重洲口から八丁堀交差点を右に曲がること。しかし、実際は、一つ前で曲がってしまったらしい。途中にポリスボックスがあったので道を聞く。
 お蔭で、「京華スクエア」という小さなビルはすぐ発見できたが看板がない。うろうろしていたら、通りかかった初老の男性が「看板はあそこだよ!」と教えてくれた。「しかし、何にもないよ!」と言う。やはり、世間では屋敷跡の実物があると思っているらしい。
 そこは、何回も行き来した場所であるが発見できなかった。看板は背丈と同じ位置である。奉行所跡は壁やしたばかりだったので、目が下に向いていたのだ。人間と言うのは、事前の経験に左右されるらしい。気を付けよう。

横断歩道を越えた直ぐ右の建物が「京華スクエア」


現在地の文字から真っ直ぐ右へ向かう道が八重洲口

二つ目の「北町奉行所跡」発見              Exploring cultural heritage in the elderly couple.                            

 ゴールデンウィークの中日、天気も良かったので、靖国参拝もかね、細君に東京駅も見せたかったので、八重洲口にある二つ目の「北町奉行所跡」を探しに出かけた。
 大丸の「第1北町奉行所」の看板のある小さな入り口(ここ開くの?)のドアーを開け、あてずっぽうで歩いてゆくと、掃除の女性がいたので、尋ねると、「丸の内トラストタワー」の横だと教えてくれた。彼女は「何にもないよ!」と独り言のようにつぶやいていたがそんなことはない。彼女は「昔の姿」が残っていないよと言いたいらしいが、看板があれば十分。「江戸城石積み」の模型などもあり、看板も立派であった。「第1の場所」よりもわかりやすく、碑も立派である。しっかりと撮影し、大満足で、帰りがけ、彼女たちにお礼を述べ、勇んで、「八丁堀の同心・与力組屋敷跡」探索に向かった。
 なお、江戸期の地図などの詳しい情報は、次のHPで・・。(但し、10年前のHPなので、看板などは現在と違っています。    http://orange.zero.jp/kkubota.bird/machibugyousho.htm

 
 


江戸城外堀の石垣

 北町奉行所の東方には、寛永13年(1636)に築かれた江戸城外堀がありました。
現在この地域の外堀は、常盤橋門跡や日本橋川の護岸の一部などに石垣が残りますが、東京駅周辺は昭和30年代には埋め立てられ、今は外堀通りや交差点の名前等に名残を留めている程度です。
 ここに再現した石積みは、かつて存在した外堀をイメージしたもので、その一部には鍛冶橋門(東京駅八重洲南口)周辺で発見された堀石垣使用し、ほぼ当時の形で積み直しています。石垣石の表面には、築かれた当時の石を割った矢穴が見られます。

左側に「丸の内トラストタワー」。看板は右奥に進む


2013年5月5日日曜日

相模武士「中村党」の本拠地「殿の窪」へやっと到達。 Exploring cultural heritage in the elderly couple.                            

 3月の彼岸過ぎ、二宮町の細君の里の墓参りを兼ねて、準備を進めてきた岡崎義実の舅、中村宗平の館跡とされている「殿の窪」(小田原市小竹)の探索に向かった。ウォークで行きたかったが取りあえず場所の特定が肝心と思い、乗用車で向かった。事前調査によれば、「殿の窪」は小田厚の二宮インターから、小田厚を越せばすぐの所である。
 少し行き過ぎた所で、仕方なく農道に入る。道は細くなる一方。畑作業の気の良いお婆さんに出合い、看板があることを教えてもらい、ようやくたどり着く。看板の近くに駐車し、ビニールハウスの近くで働いていたお爺さんに話しかけると「あそこに墓もあるよ。」と教えてくれる。思ったより、楽しめた一日であった。
 詳しくは、次のURLを見ていただきたい。

http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page27

杉林の辺りに墓石がある
看板とビニールハウス

 
 



2013年5月3日金曜日

『丸山城址公園(伊勢原市田中)』迄往復          Exploring cultural heritage in the elderly couple.                   

 ゴールデンウィークの中日、天気も良いので、買い物がてら、いつものウォーク気分で、自宅の馬渡から田中の『丸山城址公園』までウォーク。整備される以前には研修で行っていますが、整備後は行っていませんので、一度は行ってみたいと思っていた。
 途中、駅でコーヒータイムをしたり、弁当を買ったりしたが自宅を出てから50分ほどで到着。中央は円形の広場に整備され、子供連れの若いCoupleが遊んでいた。「ここに桜を植えれば名所になるぞ!」と言うと細君は「桜は植えてあるよ。しかし、引き抜かれて困っているらしいよ。」と言う。入り口にそんな看板があった。担当者は大事に植えた桜が3本引き倒されのがかなり残念だったらしい。しかし、嬉しい怒りである。

神宮寺住職の無縫塔群
あちこち動き回り、公園の一角にある神宮寺歴代住職の墓まで見学できた。写真は文道禅師の石塔で、この方は、高部屋神社の神宮寺(じんぐうじ)第14代住職で、江戸幕府の命を受け、蝦夷(えぞ)(現在の北海道)国泰寺(こくたいじ)の第5代住職として赴任し、7年の任期を勤め上げ、神宮寺に戻ってきましたが、明治元年の神仏分離令により廃寺となりました。公園とはフェンスで区切られていましたが鍵などかかっていない。粋な計らいである。帰りは、国道246号線に架かっている陸橋を渡り、高部屋神社をとおり、道灌の墓を見ながら帰宅。2時前でした。今年の道灌祭りのときには案内役ができそうだ。

詳しくは、次のHPで。
 
 
http://napoleone.my.coocan.jp/Kanto/Kanagawa/Maruyama/Maruyama.html



大山がよく見えた