2013年7月22日月曜日

大山情報【武蔵国だより第3便】              大山阿夫利神社の御燈明が灯されました。                              

 権田直助の生誕の地、「埼玉県毛呂山町」の町田美雄さんからの第3便です。
 第1便は日高市からの、感動的な大山山影でした。第2便は大山参詣が盛んだった日高市からの、権田直助の詠んだ歌が立札に掲示されている樹齢300年と云う高麗神社の「ひがん桜」の花だよりです。
  第3便は毛呂山町にある「大山阿夫利神社」の灯篭点灯の情報です。

  町田さん、ありがとうございます。

 伊勢原市でも「ISEHARA・おもてなし隊」主催で、8月4日(日)、大山の山開きの間点灯される「小稲葉地域」や「平塚市城所地域」の夜間見学ツアーを実施します。当夜は十数名が参加し、小稲葉や城所地域の「大山祭り」的に設置された灯篭の幽玄な灯りを撮影し、HPでも掲載します。

 詳しくは、当ブログの7月13日号を見てください。

以下、町田さんからのお便りです。

 御無沙汰いたしております。 大山阿夫利神社の御燈明が灯されましたのでご連絡いたします。


 ◆所在地 
    埼玉県入間郡毛呂山町大字阿諏訪字中山
   (もろやまちおおあざあすわあざなかやま)
 ◆石燈籠の 刻字
      正面 奉献 阿夫利神社
   右側 明治二十丁亥年第六月吉日建立
   左側 當村 中山組

 ◆道路拡幅のため2回程位置替えしています。
 ◆建立年月が権田直助が帰幽した年月ですが記録等がないため不詳。

 ◆現在、講員(阿諏訪講)は十二名で、毎年七月二十日から七月の三十一日まで、毎日午後六時頃に、講員が順番で御燈明をあげ、二礼二拍手一礼をして、中山地区の安全を祈願して、大山阿夫利神社燈明順番名簿と燐寸と蝋燭を次の人に渡します。
一回りしたら、来年の当番に「一年間よろしくお願いします」といって引き渡します。

その年の当番は、燈籠の障子紙を貼り換えて、七月二十日の六時ごろ燈籠を上げます。
阿諏訪講としては昭和以降には大山阿夫利神社に行った記録がありません。
 他に毛呂山町の池田地区にも大山阿夫利神社の燈籠が有りましたが諸事情により、平成二十二年二月に閉講してしまいました。
 燈籠は明治二十年頃の木製の燈籠でしたが、大山阿夫利神社でお焚き上げされました。
以上です。また、よろしく お願いいたします
 

  平成25年7月22日
                             埼玉県入間郡毛呂山町    町 田 美 雄


点灯

献灯

祈り
                         

2013年7月19日金曜日

宮崎武雄氏(大山道研究会々員)の記事「観光と市域の連携」が<伊勢原タイム紙>に掲載

 2013(平成二十五)年7月19日号の<伊勢原タイム>紙に、標記「宮崎武雄氏」の記事が掲載されました。
 宮崎氏は大山参道に食堂を構える「中村屋さん」のご隠居さんで、大山のガイドブックや大山道の研究家として活躍されており、私もいろいろな面で、ご教授を頂いており、このブログにも、度々名前を出させて頂いております。一昨日も、一緒に、小稲葉周辺の大山道灯籠見学会の下見をしてきました。
 とりあえず、記事を掲載しますので、じっくりと読んでください。
 
 

2013年7月15日月曜日

「水稲・不耕起栽培」の試み <田の草取り>       ・・さくらの家福祉農園 S指導員の試み

田圃は馬渡の昔土腐地帯だった矢羽根川近くにある。
正面の森は里山に見えるがその向こうは
「城所台地」で畑が広がっている。
さくらの家福祉農園の7月のオープンデーは、田圃の草取りです。今年から、始めたという「不耕起栽培(水稲を田圃を耕さずに栽培)がの経過を知りたいと言う事もあって、朝10時頃から参加。生育状態を観察後、撮影。「不耕起栽培」の田圃と通常の栽培した田圃との生育状態は、写真を見てもわかるように、それほど違いは感じられない。却って、耕起栽培している田圃の、「生育の不揃い」が気になった。

生育の不揃いが見て取れる。
これは、最後に聞いたことだが、「アオミドロ」の異常発生で、苗が枯れたので植えなおしたからだそうだ。今年は除草剤を使っていないと言う事だが、除草剤と「アオミドロ」の発生とは関係ないらしい。他の田圃ではそれほどアオミドロが出ていないのを見ると、「堆肥」のやりすぎではないかと、若い担当者は推察していた。今年は堆肥を1トン近くつぎ込んだらしい。
トタンで仕切られた右が不耕起栽培田圃。左は通常栽培の
田圃。生育に特段の差は見られない。
除草は不耕起栽培の田圃を中心に行う。この時期の除草は根を傷め、分傑(ブンケツ=茎の根に近い節から新しく茎が発生すること)を遅らせるので除草機は使わないが一寸、デモにやってみていた。除草は専ら、手で掻き取る方法。通常の耕起栽培なら、土が柔らかいので、取った草は丸めて、足で土の中にめり込ませるのだが耕してないので固く、めり込まない。仕方なく、畦に置くことにした。
 それにしても、これからどうなるかは不明だが、今のところ、「不耕起」と言う面では遜色ない。
散歩の途中に田圃があるので、常時注意してみてみたい。

アオミドロ
雑草のアオウキクサとコナギ
除草しながら気になったのは、「オモダガ」類が多く発生している事でした。通常、この辺りでは、「オモダカ」は川辺には見られない。しかし、水を張った田んぼには必ず復活して、大きく成長している。種が残っているのだろうか?水生植物、と言うより生物の子孫繁栄に懸ける能力には驚かされる。
風車のように葉を広げているオモダカ
次回は10月の稲刈りまではオープンデーはないが、理事であるという立場から、職員や利用者と共に、「不耕起栽培」を見守って行きたい。




2013年7月13日土曜日

「相模大山・小稲葉街道灯籠(大山街道道しるべ)    位置図」を作ってみました。

  昨日、この「ISEHARA・おもてなし隊」の情報交換ブログ「神奈川・伊勢原・大山情報館」の視聴者(県内SN大学職員)より、平成11年8月記事「小稲葉街道の灯籠(大山講の道しるべ)」
 http://saiseigo1.blogspot.jp/2010/08/blog-post.html>  に掲載されている灯籠の写真を撮影したいので、詳細な位置を教えて欲しいという要望を頂いたので、「おもてなし隊」の趣旨に沿って、関係者のご教授を頂きながら、標記「詳細図」を作成してみました。
 このブログには、「小稲葉街道灯籠の全体設置図」のみ掲載しますので、5ヶ所の各灯籠の「詳細図」については、「ISEHARA・おもてなし隊」の連絡帳に掲載されている調査報告書4「相模大山・小稲葉街道灯籠(大山街道道しるべ)詳細位置図」
      <http://www3.hp-ez.com/hp/magoemu/page28>をご覧ください。
 しかし、この「詳細図」は、まだ十分に検証した訳ではなく、一度、巡検した記憶と知人の助言によるものであるので、今年の山開き時期には、再度巡検し、場所を特定したい。また、夜間に点灯された灯籠の写真も追加してみたい。
 そして、この夜間の撮影では、「ISEHARA・おもてなし隊」の企画として、「小稲葉大山道案内灯籠夜間ツアー」として、仲間を集めてみたいので、興味のある方は是非、ご連絡頂きたい。コメント欄で結構です。

 メールアドレス  saiseigo1@tbi.t-com.ne.jp


【小稲葉街道灯籠の全体設置図】

2013年7月10日水曜日

「アドおおやまみち」のボラ活動に参加          自前の大山道案内看板の補修(ペンキ塗り)活動                                      

 4月から、いせはら歴史解説アドバイザー2期生の私ですが、縁があって、1期生の方々が結成されている大山研究グループ「アドおおやまみち」の仲間に入れていただき、大山文化遺産巡検など様々な活動を一緒にさせていただいております。

看板(ここは洞昌院の土地だそうです。)
 6月には、5年前(?)、「アドおおやまみち」の方々が大山道(青山道)設置された案内看板やベンチのペンキが薄くなってきたので、塗り直そうと言う事になっていましたが雨天順延、今日、実施しました。
 ただし、今日は35℃を超す真夏日。一時間で作業を止めました。
 この作業のリーダー、宮崎武雄氏からの「ごくろうさん!」のメールが届きましたので、それを、報告に代えさせて頂きます。




皆様へ

 熱中症になったら、「行き過ぎたボランティア活動」などの批判にさらされることは必然の状況の中で、無事、ペンキ塗りが終了しました。
 川上さん、酒井さん、斉藤さん、村上さんと私です。
 とにかく、酷暑で倒れそうな中で、ペンキ塗り、草むしり、道灌塚のベンチ修理など分担し、一時間足らずで終え、残りは晩秋の涼しいときに行いことにしました。
 事故もなく終了し、その後、汚い拙宅に集まり、雑談が楽しかったです。
 皆さま、ありがとうございました。









私も一寸塗りました。
ペンキ塗りまかせろ!
「アドおおやまみち」のまだ若い方

 雑談の主な内容は、宮崎氏が所持や収集した古物。秤、電話機、刀剣、不動様、歴史関係写真集など様々。それをネタに、騒がしく、しゃべり合ったので、私も楽しかった。


小川の流れをスムーズにし、菖蒲も植えました。
しかし、結局辿り着いたところは、「これらの収集品や民具など」の受け皿の件。早く、「伊勢原市歴史民俗資料館」ができないかなあ・・・。






石橋の石が近くに置いてありました。


右側の白いフェンス辺り「三所石橋」と呼ばれた
石橋が架かっていたそうです。↓↓「元の石橋」


「三所石橋」の5年ほど前
<平成20(2008)年代>の姿
(提供:宮崎武雄氏)
下の写真↓↓
昭和60年(1985)年代の石橋(提供:宮崎武雄氏)

2013年7月7日日曜日

戸塚駅周辺探索                        二人だけの作助ウォークⅣ下見

 7月6日(土)梅雨明けと思われるような猛暑の中、当日しか参加できない原氏と二人、戸塚宿の上方見附跡から江戸方見附跡、吉田橋、昼食場所のダイエーまでウォークガイドの下見。

戸塚宿上方見附跡
「澤部本陣跡」までは上手く行ったがやはり、「戸塚駅」に続く歩道橋で間違えてしまった。
 私にとっては戸塚駅は鬼門である。以前、自家用車で、四ツ谷の一の鳥居から不動坂のお不動さんに至る行程を、「大事な方」を乗せて、「任せておけ!」とばかりに戸塚駅を超えようとした。しかし、工事中で、曾ての道は通れない。案内板にしたがって進んだら、新第1国道も過ぎ、柏尾道についてしまった。気づいたのは「大事な方」。この方はここからの道は分かったようで、教えてもらってようやくたどり着いた。このことは、後日、知人の間で何かと話題となったようだ。


戸塚宿江戸方見附跡
この日も、「清源院」に回る前に、歩道橋を上ってしまったが直ぐ気が付いて、「清源院」まで戻った。その後、行きつ、戻りつしながら、戸塚駅周辺のビル間を巡検し、再度「橋上改札口」に立った。原氏も「はらはら」しながら付いてきてくれた。戸塚駅の工事が早く終わっていれば、こんな苦労もせずに済んだと思われる。
 地図上では、歩道橋から橋上改札口までは、試歩のときとは違うコースが早道なのであろうか、YAHOO地図では②の青い線で案内される。試歩のときは①の赤いコースだったような気がする。

吉田橋欄干の浮世絵
戸塚駅周辺YAHOO地図(ラインは清源寺入り口から橋上改札口までのコース)
原氏は、「澤部本陣跡」「清源院」「吉田橋」をガイドすることになっているので、いつものように、下調べを十分し、ガイド原稿を作成して、同行してくれた。彼の作る「ガイド原稿」は盛り沢山であるがいつもながらその簡略さに感心させられる。その誠意には頭が下がる。これからも、素晴らしい仲間として大切にし、お互い支えあいたいと思っている。




2013年7月6日土曜日

3回目の大山登頂②<追加新情報2つ>          16丁目の碑の石工と来迎谷の浮世絵       

  3回目の大山登頂①で、当ブロガーの新情報を写真で紹介したが、資料収集や調査結果待ちでUPできなかった大きな情報が2つ残っていた。
 一つは「富士見台(来迎谷)」から富士山を描いた広重の浮世絵。

富士見台(来迎谷)この日は
霧で富士山は見えない。
相模大山来迎谷(広重)
この場所から富士山がよく見える事から、「見晴台」と思っていたが広重が「浮世絵」を書いているなど全く知らなかった。迂闊にも、「説明板」を全く読んでいなかったという失態のためである。
 



  二つ目は、大山山頂まで28丁あるがそのちょうど中腹、16丁目(992m)、蓑毛道との追分道(分かれ道)にある碑の石工の件である。
 傍らの説明板には「十六丁目追分の碑。この碑は一七一六年に初建され、総高三米六十八センチメートルもあり、江戸期の大山信仰の深さをしめしている。この石は麓から強力たちが担ぎあげた。大山観光青年専業者研究会」と記されている。
 1716年は享保元年で、紀州藩主吉宗が将軍になり、享保の改革が始まった年である。約300年前となろうか。これは大山信仰の古さを物語っている証拠となろう。
 
 その後、大山ガイド誌「相模大山」の著者、宮崎武雄氏が送信して下さった伊勢原市教育委員会発行の「伊勢原市内の大山道と道標」の記事によりますと、
 ①宝暦十一(1761)年辛巳六月初建
 ②安永五(1776)年丙申六月再建
 ③寛政十一(1799)己未歳六月吉祥日建焉
 ④昭和十(1935)年十月再建
となっています。
 一寸待てよ!この資料では、初建は宝暦十一年となっている。宝暦年代と言えば、将軍は家治の時代で、田沼意次が世の中を握っていた頃である。看板との年代差は約50年。どちらが正しいのであろうか?
 私は立て看板の1716年と言うのは1961年の61を16と書き間違えただけのことではなかろうかと思う。したがって、伊勢原市の記事が正しいとしたい。
 最後に「昭和10年再建」と刻まれているので、当然、この碑は昭和10年に建てられたものであろう。
面白いのは、「寛政11(1799)年巳未歳吉祥日建」という刻字。これは、同時に刻まれている「石工 霊岸嶋南新川 栗谷勘兵衛」は寛政期、霊岸嶋南新開(川)に居住していた石工であり、
「埼玉県上尾市の市登録有形民俗文化財「馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔」に書かれている石工と同じ名で、建立日「寛政十二年十二月吉日」とあるので、大山追分の碑と同じ頃、刻んだものであろう。
 「霊岸嶋」は八丁堀近くの新開地で、現在は中央区霊岸嶋新川辺りである。
 この件については、上尾市教育委員会のHP(次のURL:馬喰新田の寛政十二年銘庚申塔を見てほしい。   http://www.city.ageo.lg.jp/site/iinkai/064110111305.html
 
 
 私は様々考察した結果、昭和10年再建するとき、その歴史の古さを残すために、寛政11年の碑文もそのまま刻んだのではなかろうかと推理した。
 先述の宮崎氏はこれとは違い、メールで、次のようなコメントを寄せている。
 「ただ、なぜこんなに何回も建て直したりしたのかは、未だに不可解です。全部そう取り替えをしたのですかね。
 こんな重いものを・・・。壊れたのなら近辺に前の残骸が少し残っていてもいいと思うんですけどね?
 石はどう見てもすごく古そうですしね? 何かありそうに見えます。昭和新設再建なら神仏分離で「石尊大権現大天狗、小天狗」は使わないと思うんですけどね。
 刻字もこんなに摩耗してないでしょう。石塔もこんなに白くカビが生えないでしょう。たとえ明治でももっと新しいと思いますけどね。
 私はですね、すぐ疑問に考えてしまうんです。多分倒れたのを建てなおした程度だと思うんですけど。私の考えあたってるような気がしますが。いかがですか? 」 
 
 
 宮崎氏は、「寛政十一年」の文字が残っているのは、意図したのではなく、寛政の文字がある倒れた碑を、「昭和10年再建」の新たに刻字して、立て直したと推理する。文字や苔の生え方、碑の古色、刻字の摩耗具合などを考えるとその方が納得できると言う。そうかもしれない。
  確かに、刻字を同じ様に彫るなどと言う面倒なことはしないような気がする。最後の昭和期のように、「〇〇年再建」と刻めば十分に後世の人々に伝わるのだから・・・。
 もう一度、実物で、大正か昭和期や江戸中期の碑等と16丁目の碑と二つを比較検討し、何か証拠をつかみたいものだ。
 
 それにしても、長さ約4メートル、約30cm四方の石柱を何人の強力で、大山の中腹まで運んだのであろうか?物凄い組織力とリーダー性が求められたであろう。
 江戸・霊岸嶋からは船便があるから、須賀港や田村の渡しまで運ぶのは容易であったろうと思われる。江戸城石垣つくりに運んだ石のことを思えば、そう難しくはなかったと思われるからである。
実際に、「七五三引」の大山鳥居建設のため、四国から田村経由で、石柱を運んだという「山口家」の古文書を読み終わったばかりである。
 
 しかし、大山を運び上ったその思いには、看板に書かれているように、江戸期の大山信仰の篤さが伝わってくる。






2013年7月4日木曜日

市内小学校へ出前授業                  「縄文土器つくり<6年生>」(今年は2回目)

 7月4日(木)市内の小学校6年生向け「縄文土器つくり」の出前授業に参加。6年1組を4人のいせはら歴史解説アドバイザーが指導に当たった。
 いつも縄文土器作り指導で苦労するのが、子供たちの感性・感覚と野焼き時を含めて、壊れたり、割れたりしない土器を作るための工夫との相克です。美術の授業ではないので、そこまで拘ることもないだろうが縄文人が創意工夫して作った土器を見れば、自ずと自分も創意工夫はしてみたいと思うのが子供たち心境ではないだろうかとも思うからです。独りよがりだろうか。

指導者と良く相談して作り上げました。
典型的な縄文土器の作品
基本は全体に厚く、がっちりした湯呑型が最後まで壊れにくいが子供たちはそうは行かない。こねくり回して、薄くなったり、皿様になったり、凸凹が残ったり、火炎様の突起をつけたり、花弁のように広げたりと、創意工夫で恰好良い作品を作ろうと努力している。 いつも、そんな子供たちの発想を上手に援助してやりたいと思っている。

最初は全体に薄く、鋭い突起に拘っていたので、
一寸、心配した作品。
しかし、先生方の指導もあり、最後は大分厚くなり、
突起も頑丈になっています。
これなら野焼きも大丈夫そうです。
単に、それを壊れやすいとかだけで、こちらの意図する頑丈だけの作品に作り変えてしまうのはとても忍びない。そこで、相互に話し合いながら、縄文土器の基本と校庭での野焼き後まで想像させ、子供たちと折り合いをつける。
 そして、野焼き時は必ず、私も立ち会い、突起など、作品の壊れやすい部分を考慮しながら作業することを約束する。子供たちの反応は様々だが、「君の作品にしようよ!」と言うと、大体納得してくれる。
 三つの子供たちの作品を紹介します。




縄文土器の最新情報

3回目の大山登頂①                      大山参道「中村屋」さん(食堂)のご隠居さんと・・・!

新設された大山獅子像(親子獅子)
7月3日(水)9時40分、大山参道、中程に位置する「中村屋」さん駐車場から、3回目の大山登頂を目指し、午後4時、無事下山。行きはケーブルを利用したが、帰りは「見晴台」、「二重の滝」経由で、女坂を下りました。

移設された権田直助像
(碑文は記事末に記載)
今回の登山の主な目的は、「中村屋」さんのご隠居<宮崎武雄氏>が出版していた「手作りガイドブック  相模大山  大山今昔史跡めぐり」(初版2000部・500円)が売り切れたので、今年、再出版を目指しての実地踏査と写真撮影のため。 再版本も初版と同じようにと考えているそうですが発行部数と定価は未知数です。

彫刻された納め太刀(阿夫利神社地下道)
再版本が「中村屋」さんの店頭に並んだら、このブログでまた紹介しますので、是非、購入して、読んでみてください。
 

牡丹石(凝灰岩が崩れて
花びら模様に見える事から命名)
再版の「ガイド冊子」掲載場所の確認や私への説明、そして、撮影しながらのゆっくりペースの山歩きだったので、思ったより辛くはなかったが、下界は薄曇り、山頂は手も凍えそうな強風の吹く霧の中という天候で、震えながら昼食となったので、疲労困憊。しかし、梅干し入り握り飯とシャケ・隠元・卵焼きのおかずは旨かった。ウォークや登山などの 昼飯は「握り飯」に限る。
 午後、「見晴台」に向かう日向道を歩くこと30分で、ようやく山腹にたどり着くと、風も弱くなり、下界の厚木市の街並みが僅かな青空の下に見えると漸く、元気が戻ってきた。

山頂の御神木
しかし、二重の滝辺りまでは、何とか気力で頑張ったが、前不動辺りからは安堵感で、疲れは倍増。「運転は大丈夫か?」と気遣うほどの双方、疲れの自覚症状。しかし、7時間に及ぶ山歩きを、昭和21年小学校に上がった同級生二人は互いの健闘を讃え、慰めあった。
 
 宮崎さんは大山に上ったのは10年ぶりと言う。それだけに、今回の「ガイドブック 相模大山」出版に意欲的に取り組んでいる姿がうらやましかった。素晴らしい本ができることを期待している。

八大坊上屋敷跡
八大坊に登る階段(一番上に
仁王門があったとのこと)
春日局の参詣年表(大山寺の横壁に掲示)
今回の大山歩きは私の勉強も兼ねていたので、宮崎さんのくださった新しい情報も沢山あった。以下、その内の幾つかの写真を掲載します。




 


「前不動から仁王門・男坂」相中留恩記より

女坂の民家(先導師)の墓所(祭祀は祝詞だそうです。
ここだけは、神仏は分離されていないらしい。)
梅雨時の今は、勢いよく水が流れている。
右の足場は最近崩れた石垣工事。



権田直助像の碑文













2013年7月2日火曜日

辻堂新町町内会ゴルフコンペに参加           作助ウォーク(藤沢編)ではお世話になりました。

 5月、作助ウォークⅢ(四ツ谷から藤沢宿へ)では、地元辻堂新町町内会の皆さんにもご参加頂き、地元の歴史を伺ったり、いろいろお世話にもなりました。特に、藤沢市の郷土史講座を受講された方もいて、飯盛り女などに関する貴重なお話を伺うことも出来ました。

スタートホール:パー5
Bloggerは友人がこの町内会にいたことで、古くから仲良しをさせていただいており、町内会のゴルフコンペにも参加させていただいていました。
 今年も、この7月2日(火)コンペがあり、参加してきました。会場は、毎年8月、プロのファンケルシニア選手権大会が開催される静岡県裾野カントリークラブ。プロと違って、バックティーから打つわけではなく、スコアも良くなかったが(ハンディー10はきつい!)、バンカーに囲まれたショートホールやトリッキーなロングホールなども経験でき、過去に実況されたプロの弾道を思い出したりできたので、とても楽しかった。特に、キャディーさんはプロを目指している若い女性の研修生で、様々なゴルフの話も楽しむことができた。
 




2013年7月1日月曜日

夏休み親子考古学教室「まが玉つくり」今年も・・・!                            大田公民館

 毎月1日は、伊勢原市広報の配布日です。7月号には、夏休みの子供向け企画事業が掲載。
 その中に、標記の「まが玉つくり」も掲載されていました。Bloogerは、この行事に毎年、講師として参加。
 広報には昨年の様子の写真も掲載されていましたがそこには、Bloogerの姿も映っていたので、初めてのことなので記念にUPしました。