2014年6月30日月曜日

オーイ!山形・置賜人!故郷が新聞に載ってるよ! JRの「DC」CMだけどね!


「DC」って何だ!

 ウェブサイトで調べたら、JR各社と指定された自治体や地元の観光事業者等が協働で実施する大型観光キャンペーンのことだって。Destination(目的地・行き先)とCampaign(宣伝戦)の合成語。「DC」「デスキャン」と略されることがあるんだって・・・。

 と言う事で、今回、JR東日本が山形県と協働して、山形県の観光キャンペーンをしているらしい。新聞の半面を使ったCMが2回も掲載されている。嬉しくなって良く見ると「置賜盆地」の事も載ってるではないか!

 南陽市宮内の熊野神社。昭和20年代は宮内町の「熊野神社」だった。しかし、村から出たことが無かったので見たことが無かった。馴染んでいたのは大塚村の「熊野神社」だった。

 高畠町の『草木塔』。これも有名ですね。「山川草木悉有仏性」。中国の高僧の教えだと思ったよ。しかし、思い出は、高畠町の洞窟から発見された縄文期の遺物ですね。12歳上の長兄と二人、自転車を駆って、見学に行ったのは昭和35年の夏休み。一番私を理解してくれた長兄だったが52才で死んじゃった。今は、甥っ子が家を継ぎ、お墓をきちんと守っていてくれる。安心だね。

 

 置賜盆地の家々は、高校の教科書に出てくる「散村」で、皆、「屋敷林」で囲われ、冬の吹雪の時は凄い音がしたね。布団の上に雪も吹き込んできた。

 家々は、上杉鷹山公の言いつけを守って、戦後まで、屋敷で正月用御馳走の「鯉」を飼い、その他、にわとり・あひる・ウサギ・豚・牛・馬・ヤギ・犬を飼い、客があれば、牛・馬・犬以外は皆首をしめて、皮をひんめくり、接待用に使ったね。子供たちはペットのように仲良かったが、結局は食うためだと知っていたから、首をしめるのを喜んで手伝ったね。肉なんて食えるのは、滅多に無かったよ。また、垣根には飢饉用

に、食用の「ウコギ」を植え、朝食は一汁一采、養蚕やたばこ栽培にも励んでいたよ。よ。)

 伊勢原にも置賜人は一杯いるよ。同じ村出身だっているよ。新潟人には負けるけどね。

 今年は、大山の何処かで「芋煮会」をやるので集まろうよ。

写真はクリックすると大きく見えるよ。)


 

2014年6月24日火曜日

情報感謝! 『樹齢800年の大欅伐採跡』見学報告             下糟屋「高部屋神社」


 「ISEHARA・おもてなし隊」参与の西部女史より、メールで、次のような情報を頂きました。

    <画像はクリックし、大きくして見て下さい。>

 

「話は変わりますが、高部屋神社にぜひいらしてみてください。

切り株

駐車場もあります。正面鳥居の左手に樹齢800年の「けやき」がありましたが、樹木医のお見立てで、この木は危険だという事になり伐採されました。

外から見たところ何でもないのですが、伐って見たら中が空洞で皮一枚で立っていたんですね。そして、その皮から「ひこばえ」が出ているのよ。樹木の生命力にはびっくりです。

他にも「けやき」はあるのですが、とりあえず大丈夫なのでしょうか、伐採は一本だけのようです。切り株の見事さをぜひご見学にいらしてくださいませ。」                         

 西部周子

裁断面①半分以上は皮部のみ

 

切り株(ひこばえも元気)

裁断面②ここだけで支えていた。

雨が上がったので、早速行って来ました。高部屋神社には、伊勢原市文化財保護委員の小野先生がおられた頃、一度お伺いし、親しくお話を伺ったのを思い出します。

 

なお、高部屋神社については、次の神奈川県神社庁のサイトで見て下さい。

 

http://www.kanagawa-jinja.or.jp/search_dtl.php4?jid=819&cd=1209262&scd=&npg=1






根っこは巨大


社務所近くのご神木Ⅱ世?

2014年6月23日月曜日

毛呂山・越生・圏央道・弾丸ツアー200㎞<その5> 越生町「龍穏寺」☛「建康寺」☛「山吹の里」

「越生町」を知ったのは、やはり、4年前である。

権田直助の生誕地が「毛呂山町」で、「行ってみたい!」と言う話になった時、「それじゃ!越生にも行かなきゃ!」と言う西部女史の発言で即決。西部氏は伊勢原の観光ボランティアの大ベテラン。運転者は、相州霊山「大山」研究の第一人者、宮崎武雄氏、「俺も行く!」と同道してくれたのは、伊勢原郷土史研究会長 渡部氏と錚々たるメンバー。私は企画推進で頑張った。

 その時から、越生町の虜になった。梅や柑橘類の樹木の茂った山里の風情は、やはり児童期、置賜盆地の真ん中から、小松や梨郷の山々へ薬草、きのこ取りに行った幸福な時代の思い出が蘇ったのであろう。

龍穏寺前の谷川

まして、龍穏寺の佇まいは、観光化された寺院風景と違い、永遠の静寂さが保障され、谷川の水音だけ聞こえる「己の世界」が実現できそうな自然に囲まれている。

 2度目の訪問が終わった今、自分の墓地のあり場所として、本気で考えている。

ガイドされる近江氏

 前回の案内者は、毛呂山町の佐藤学芸員さんの紹介で、越生町文化財課主幹の石川氏であったが今回は、文化財課に最近採用されたという近江さんという若者であった。「私はまだまだ未熟者で・・・。」と言いながらも、子ども達をガイドする様子を交えて話すガイド内容は、丁寧で、一言も逃さず聞いてもらおうとする気概に溢れ、好感度は最高でした。

 圧巻は、「栴檀林」と書かれた山門扁額の下でのガイドでした。

「駒澤大学の校歌をご存じの方はおりますか?」という言葉から始まった。龍穏寺は曹洞宗であるから、現在、その教義は「駒澤大学」で学ぶ。大学の基礎となったのは、古く「栴檀林」と呼ばれた学舎であった。

♪♪ 栴檀林!栴檀林!時代は正しく飛躍し来たれり。捕えよ!我が友、この現実!♪♪

神宮球場で、応援団長の指揮で歌った応援の校歌である。

ここまで深く中に入ったガイドは聞いたことがない。素晴らしい導入である。バスガイドさんの宛がい扶持のガイドとは一味違う「品」の高さを感じられた。

 

 
道灌父子の墓標

デジカメのバッテリーが切れて、良い写真が無いので,「龍穏寺」「自得軒」「建康寺」「やまぶきの里」等の情報については、次のサイトでみて確かめて頂きたい。

 

http://saitama.hiwadasan.com/ogose/index.html(旅 越生町)

 

 

http://www.ohoka-inst.com/kenkouji.pdf(建康寺)

 

 

龍穏寺ご住職さんのご歓待を受けて・・。

最後に、龍穏寺のご住職、芹沢聡海氏、ご自身が、奥方と共に、我々を温かく迎えてくださり、御本尊様への合掌や名物ジュース「ゆずの介」で、おもてなし下さったことには大いに感動しました。心から感謝申し上げます。



また、同行した伊勢原の「道灌の和歌の研究」では第1人者の飯島是光氏が、「義務感ではなく、自分の心から楽しめる旅となった。企画力と言い、人脈と言い、君の力が分かったよ。とても良かった!」と何度もお礼を言って下さったのが嬉しかった。

とにかく、「越生町」は一度は住んでみたい場所である。

年休を取ってガイドをしてくださった近江さん、ありがとう!!!

この日の帰路は、東京組とは「やまぶきの里」でお別れし、伊勢原組は、厚木市に入ってから、皆で夕食を取り、無事、自宅玄関まで送り届けて頂きました。

参加者の皆さん、いろいろありがとう。お世話になりました。


 


道灌像の前で記念撮影




 

2014年6月22日日曜日

毛呂山・越生・圏央道・弾丸ツアー200㎞<その4> 「権田直助生家跡」☛昼食は名物の「柚子うどん」

「權田直助生家跡」は毛呂本郷にある。

江戸期の毛呂本郷

 きちんと、町の史跡指定を受け、看板も設置されていたが、最初に細君と訪問した4年前は、タクシーの運転手さんさへ知らなかった。しかし、その4年後の、今回の、3回目の訪問では「権田直助」は毛呂山町の3大偉人の一人になっていた。

現在の毛呂本郷

 

4年前、「いせはら歴史解説アドバイザー」講座で調査した時、直助について語ってくれた受講者は一人のおられなかった。しかし、調べてみると、幕末から明治期の激動の歴史の中で武力闘争に奔走した一時期もあったが、晩年、大山の地から出版した「句読点考」は直助の偉業であると感じた。そして、句読点学者のネット情報に触れ、ますます、確信した。小さい時分から、読み物や国語が好きだった児童期の自分を重ね合わせることも多くなった。

私のコメントが掲載された広報誌

 

そこで、生誕地訪問となったが生誕地では「医師」としての評価が大で、その他は小であった。毛呂山の図書館にあった「句読点考」を少しコピーし、持ち帰った。その後、ネットや風人社のミニコミ誌「KAZESAYAGE」などで、彼の「句読点考」に関する情報を発信。それでも、伊勢原の郷土史家には、「権田直助の生涯を紹介しているだけで、人物評には値しない。生涯年表ですむ内容である。」と酷評され、今も相手にされていない。

しかし、毛呂山町では、全町挙げて支持してくれた。直助の偉人評価に、一石を投じてくれた伊勢原の人として、今も大事にしてもらっている。

そんな訳で、直助の生誕地訪問は三回目であるが、ここで、生誕地跡に建つ「岡部米店」の社長、岡部和雄氏は毛呂山町の議員さんで、二年前、大山講中の阿夫利神社参拝で大山宿坊「下神崎荘」に宿泊された時お会いしているがここでお会いするのは初めてである。伊勢原からやってくる我々を、多忙な中、時間を取って、ご挨拶に来てくれたのである。

生家前の看板と石碑
生家の岡部米店前
毛呂山町議 岡部氏もご挨拶に・・・。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ISEHARA・おもてなし隊」は「いせはら歴史解説アドバイザー」がメンバーと言う事で、伊勢原市以外では高い評価を得ていることを市外に出れば、いつも実感している。その分、いつも身を引き締めている。

 

 

昼食は、先回、美味であった「柚子うどん」を所望しました。

名物柚子うどん店

この辺りは、山地で、寒冷。柑橘系は育たないという。しかし、柚子は上手く育ち、名物となっている。その柚子を使ったうどんを創意工夫の末、「柚子うどん」を売っている店がある。

この日も、人気で、周囲は自家用車で埋まっていた。

腰のあるうどんで、細君の土産に買った。






 

2014年6月21日土曜日

毛呂山・越生・圏央道・弾丸ツアー200㎞<その3> 高林謙三のこと☛「高林謙三って誰!?」


町田氏のガイド手順では、「石尊山」の次は「權田直助の生家跡」。そこでは生家跡で「米店」を経営する岡部和雄氏が待っていることになっていた。岡部氏は毛呂山町議で、多忙ゆえ、時間を決めての対応だったらしい。「石尊山」を二手に分かれ、大急ぎで下山。

 

「高林謙三」の事を話題にしたのは、その下りの時であった。

「高林謙三が医師から、茶葉製造機の発明者になった理由は、権田直助の影響ではなく、単に、“西洋医術医師として移住した狭山地方の茶栽培農家の経済状態を豊かにしたいがために・・。”だけの理由だったようです。」という。

「なんだか、彼女の期待を裏切るようで、答えにくいから、後は任せます。」とも言われた。

彼女とは、厚木市に居住されている「裏千家茶道助教授 上原美奈子氏」の事である。

上原氏のブログより転載

先日、彼女から次のようなメールを頂戴した。

 

『お問い合わせ内容』

はじめまして。最近、権田直助という名を知ったばかりの厚木市民です。上原と申します。

615日に、伊勢原の雨岳文庫さんでお茶摘みをさせていただき、釜炒りで製茶して、同じく伊勢原の松鈴庵さんでできたてのお茶を飲もうという会を開きます。

伊勢原のお茶について調べているうちに、高林謙三氏が権田直助氏に漢方を学んでいたことを知りました。高林謙三というのは、茶業の世界では誰もが知っている人で、粗揉機開発など日本の製茶を機械化した先駆者です。私も清川村でお茶を育てておりますが、有名な高林謙三がもとは医者であったことは知りませんでした。

日本の茶業史に欠かせないこの方が、医師から茶業家に転向する理由に大変興味を持ちました。氏に影響を与えた人はいろいろあるかと思いますが、今回はお茶会が大山でもありますので、権田直助とのかかわりについて、特化して調べてみたいと思ったのですが、もう日もなく、大変ご無礼なお願いで恐縮ですが、もし、ご存知のことがありましたら教えていただきたく、また、これを読むべしなどのご示唆をいただければありがたく、メールをさせていただきました。
Facebook
でお茶会の案内を公開しておりますので、ご登録がなくても覗いていただけますので、ご参照いただければと思います。またよろしければ是非ご参加くださいませ。


        

    

    https://www.facebook.com/events/1475856272631643/

大山のお茶についても、調べていきたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。素晴らしいサイトに巡り合えて大変うれしく思っております。                                        

                    上原美奈子


 

しかし、高林謙三なる人物を全く知らない。そこで、、狭山に近い毛呂山町の皆さんに回答の援助を求めていた訳です。

長くなりますが私たちの間では話題になることが無い御仁なので、もう少し続けたい。

茶葉粗揉機(長峰園HPより)

高林謙三は埼玉県では著名な茶業機器の開発者であった。若い頃は医者をめざし、権田直助の門人となったが後、西洋医学に転じ、狭山地方で開業。この地は茶業で生計を立てている方が多いが、豊かでない方々が多いのに発奮し、茶揉機の改良に専念。しかし、上手く行かず、一時は貧困に喘いだこともあったが「茶葉粗揉機」の開発に成功した茶業界の恩人であるらしい。

サイト「狭山茶の歴史より転載」

立公文書館サイトによれば「埼玉県狭山で茶園を経営していた高林は、茶の生産量の増加には機械化が必要なことを痛感し、生葉茶葉蒸器械(特許第2号)、焙茶器械(特許第3号)、製茶摩擦器械(特許第4号)を発明しました。」とある。また、「明治31年に特許を取得した「高林式茶葉粗揉機」(特許第3301号)は、手揉み動作を機械内部に備え付けたもので、製茶機械化への道を開く画期的な発明でした。」と言う事です。

 

上原氏はこの高林氏の偉業に関して、「漢方医学、つまり権田直助の影響があったのではないかと推察し、また、直助が「茶の効用を知り、己の医業に活用していたのではないか?」と期待したのである。

しかし、実際には、高林は西洋医学に転じていたので、茶業に転向したのも茶業を営む農家を助けたいと言う一心であったらしい。町田氏が話しずらかった理由は、医学と関係なかった高林氏の茶業転向の事である。

 

しかし、上原氏には、このことはきちんと伝える必要があったので、このブログを使わせて頂いた。


ただ、今後、直助が茶の効用を重要視したかどうかなど、検証すると同時に、縁があった「山口家」の座敷で、「ISEHARA・おもてなし隊」主催で、上原美奈子氏の「茶に関する世界のお話し」をタダで伺う機会を狙っている。一寸、図々しいかな!?

なお、この記事を書くに当たっては、次のサイトを活用させて頂きました。

 

①茶の葉の声に耳を澄まして http://blog.goo.ne.jp/camellia4387

 

狭山茶の歴史(クリック)

 

h発明のチカラ(国立公文書館)(クリック)

 

狭山のお茶作り(クリック)


追記

本日、毛呂山町郷土史家、町田美雄氏より、高林健三に関する情報を頂きましたので、追加いたします。

◆6月20日、日高市立高麗郷民俗資料館に寄りましたので、資料館管理者の許可を得て、高林謙三関連の写真を撮ってきましたので送ります。

 高林謙三に関する資料は、写真に写っているのみで、他にはありません。

 
高林式粗揉機

 


 

 

次回は、権田直助生家跡から、毛呂山町名物「柚子うどん」の昼食についてUPします。

2014年6月20日金曜日

作助ウォークⅦ試歩は「品川宿」              心は絶好調でしたが・・・?


平成26年6月18日(水)時々小雨もありましたが、他に苦にする事もなく、じっくり、ゆっくり、品川宿を学習をさせて頂きました。しかし、遊びが過ぎて、折角配って頂いた資料の予習もせず参加し、引率の諸先輩には誠に申しわけないことをしたと思っています。

そんな中で、「東海寺大山墓地」の「賀茂真淵の墓」に出合った時は感動・感激しました。



賀茂真淵(浜松市立賀茂真淵記念館HPより転載)

真淵と言えば、国学の祖と呼ばれている大人(うし)であり、大山の御師達の心の支えとなった「平田篤胤☛權田直助」の系統的な思想体系の源流です。権田直助が門をたたいた、平田篤胤の国学は古典を古事記に限定した本居宣長の学説を引き継いでいると言っていますが実際は「口承の伝承こそが古典」とし、祝詞を重視しています。さらに、篤胤は民衆の死後の行方も、「人は黄泉の国へ行くと、良い志を持った人は神になり、冥界にも行くことができる。」と説いています。それは、民衆への死後の世界の提示よりも現世における生き方の問題として、語られている。






それが、権田直助に引き継がれ、大山の御師達に大きな影響を与えています。つまり、幕末の草莽の志士たちの心の支えとなって、原理主義的な活動を呼び起こし、武家社会を崩壊させる原動力となったと言われています。







しかし、二人とも国学とは「古道の学問」であり、皇国が万国の上に立つ国であることを明らかにするための学問とした点である。「科学・学問」とは、原因と結果から一定の真理・法則を引き出そうとする研究であるとすれば、国学は古典を研究し、そこに流れている真理・法則を明らかにしようとするものといえましょう。国学者たちは古典や和歌、伝承、祝詞等の研究を通じて、日本人の心の有り様や伝統を発見し、伝えようとしたものです。



江戸期、こういった学問は中国の古典を研究する「儒学」しかなかった。日本の古典は、儀式の為とか、単なる伝承、娯楽として扱われていましたが、その中に存在するであろう真理を追究し始めたのが「賀茂真淵」なのです。





「大山の歴史」を勉強する途上、このことを知っていたので、思っても居なかった「真淵の墓」に出合い、感動したと言う訳です。


阿夫利神社の境内に建立されている国学者「權田直助像」は巨大な「獅子像」の影に隠れて、さらに小さくなってしまいましたが、直助の大山に於ける功績は、あの巨大な「獅子像」を凌ぐほどの大きさなのではないでしょうか。伊勢原の方々は、西郷隆盛と組んで起こした武力闘争を過大に評価し、国学者としての権田直助を見逃しているような気がしてならない。すでに、直助の生地、毛呂山町では「志士としての直助は小さく語り、国学者、句読点の祖としての直助を大きく語り継ごう。」と動き始めています。2012年の「直助、没後120年」を契機として、直助は毛呂山町の三大偉人の一人となり、「句読点の祖」として、小学校の副読本にも掲載されるようになっています。 



真淵の墓地は30坪ほどあろうか?鳥居が建ち、その奥に、庭石様の石が複数重ねられていました。神仏混淆の墓石は大山の地でも見たことはあり、六角柱の石塔か、神殿様の墓石だったような気がしますが3mを越える鳥居を配している墓地は、イギリスのストーンサークルを思わせ、日本に脈々と受け継がれてきた原始宗教の心を覗いたような気分になった。

また、長くなった。今日は終わり






2014年6月19日木曜日

毛呂山・越生・圏央道・弾丸ツアー200㎞<その2> 毛呂山町石尊山&不動堂のこと


毛呂山町歴史民俗資料館前で記念撮影をし、次の目的地、「石尊山」に向かった時はもう11時近かったと思う。

 町田氏の案内で、石尊山と納め太刀のある不動堂に直行。町田氏はいろいろとお手配を下さったようで、かなり急いでおられたが、私たちの体力が追いつかず、山登りに時間を取られてしまった。

 

 毛呂山町に石尊山と納め太刀のある不動堂の情報は町田氏のメール情報である。

元はと言えば、大山の石尊信仰を勧進した200m級低山の石尊山は、関八州に12か所存在すると言うウエブサイト情報を5年前に知り、3年前にはその内の一つ、茨城県日立市の石尊山を、地元の講中と連絡取り合い訪問する予定であったが3・11の東日本震災の被害があり、頓挫していたことがあり、毛呂山町にも情報提供をお願いしていたからでもある。そんな時の石尊山情報なので、石尊山訪問第1号として早く訪ねて見たかった。

サイト情報によれば、各地に勧進された石尊山は200m級の低い山で、かつては大山講中に守られて、管理も行き届いていたが今は荒れ放題、藪の中にあり、地元の一部の人しかわからないところも多いと言う。


金鳩寺・毛呂氏館跡

毛呂山町の石尊山はその典型であったらしい。直助の生地、毛呂本郷から車で10分ほどの秩父山地に近い低山である。この辺りは、現在、金鳩山寺が建っているが、かつての支配者「毛呂氏」の館跡でもあり、緑に囲まれた山地である。不動堂の見える案内板の辺りに駐車し、滝を撮影した後、5m程上の不動堂に到着。嘗て送って頂いた写真のとおり、壁面に3本の太刀が掛けてあった。驚いたことに、御堂には鍵は無く、扉の開閉は自由のようだ。御堂に安置されている「お不動さん」も拝むことができた。


看板(岡崎城の看板の参考にしたい)
納め太刀
不動堂
お不動さん
山頂をめざして

ここから、山頂の石尊社まで20分ほどかかり、到着。荒れ果て、倒壊した石碑を立て直したと言う山頂には、その経緯が書かれた看板が立っていた。そこには、町田氏と同道していた紫藤さんと言う若い女性が待っており、案内板の説明をしてくださった。聞けば、この石碑を立て直した病院長(今は亡くなっている)の現病院に勤務されている薬剤師さんで、大山を何度も訪問されている「大山ガール」という。この看板の関係者と言う事でガイド役を依頼したと言う町田氏の「粋な計らい」であった。しかし、私たちも、風人社さんも、「大山好き」の若い女性の出現に、大山に新しい風と変革のきざしを発見し、大喜びである。



石碑

石碑には「富士仙元大菩薩」と刻まれている。案内板には、この石碑は富士山の修験道を中心とした浅間神社を勧進したという内容に見える。そのことに、鋭く気が付いた原氏は「この案内板には、大山と言う文字が無いが・・・?」と質問。「石尊山と言うのは大山の祭神なので、大山の石尊を勧進したとこには間違いないのではないだろうか。大山信仰より富士山信仰の方のあこがれが大きいので、このような表現になるのではないかと思う。」と会話したが、私自身しっくり来ない。どなたか、明解に応えてほしい。











石碑のある山頂の西側は開けた空間があり、眼下にゴルフ場、その向こうの東側は秩父山地である。大山はその一角の方向だと言う。西側はすっかり開けて、スカイツリーははっきりと見える。神奈川では経験できないパノラマである。


一同、と言うよりこのツアーの企画者だけかもしれないがすっかり興奮したが次の予定がると言う町田氏の促しで山を下った。

その下りの話題が「高林謙三」であったので、次回、3回目の話にしたい。 



正面にスカイツリーが見える













2014年6月16日月曜日

毛呂山・越生・圏央道・弾丸ツアー200㎞<その1> 「ISEHARA・おもてなし隊」2回目の県外視察旅行     權田直助・太田道灌・高林謙三を訪ねて


標記、平成22(2012)年第1回目のツアー終了後から、ご都合で参加できなかった知人の要請で、第2回目を計画していたが、それから2年後の昨日(平成26年6月15日)、ようやく、実現した。

 昨日は、すでに2年前とは違い、圏央道の延長により、1時間と近く所要時間が短縮されたお蔭で、長時間の見学が可能になり、その分、お世話になった方には申し訳ない気持ちです。

 と言う事で、今回もいろいろな方にお世話になりましたので、長目を承知で、一番効果的なこのブログで報告させて頂き、関係者の方々に、謝意を申し上げたい。

なお、毛呂山町の町田氏のブログ「gakenchi」でも詳しく報告されています。


http://blogs.yahoo.co.jp/urayamagakenchi/11618919.html

 

早く着きすぎ、時間調整(毛呂山資料館)

ツアーキャラバンの一行は、馬渡を朝6時に2人乗り、出車。沼目で3人合体。計5人で129号線から、圏央道へ。日曜日の早朝は車の進行も絶好調。毛呂山町歴史民俗資料館には8時頃到着してしまった。東京から参加する電車組の小野氏、出版社「風人社」の編集員小菅氏、さらに今日のメイン案内役、毛呂山町郷土史家 町田美雄氏との待ち合わせ期間、9時まで、近隣のドライブ散策。



 9時半頃、全員集合。学芸員の佐藤さんを交え、朝の集会と名刺交換。この時、初めて、町田氏が1級建築士さんで多忙の時間を割いてくださったことを知った。町田氏とは大山情報館の「メル友」一度、下神崎荘でお会いしただけで、御顔は分からなかった。その点では小野さんとも、大山情報の「メル友」で一度宮崎武雄氏から紹介いただいた程度であった。
板碑(設置方法の解説)

今回、資料館の特展は「板碑」であった。昨年の発掘で大量の板碑が出土したそうである。秩父に近い埼玉県は板碑の宝庫であることは、20年前の埼玉県立博物館の見学で知っていたが展示されていた板碑は埼玉で1,2を誇る3m以上の板碑であった。私たちは「板碑」の種字読みなどで盛り上がった。

二つ目は「流鏑馬」である。伊勢原の「道灌祭り」的なイベントとして、毎年2回行われていると言う。


流鏑馬の像

この「流鏑馬」行事を何十年と世話されてきたのが町田氏で、「流鏑馬」展示前で、飛び出す言葉を抑えきれずにガイドする町田氏に、圧倒されつつも、聞き入った。驚いたことは騎乗するのは子供達であると言う事であった。町田氏によれば、これは珍しいことであるが元服の行事と考えて頂ければ納得できるでしょうと言う事であった。

3つ目は、はやり、「権田直助」である。毛呂山町では2年前の「没後125年の企画展」から、直助の功績を再認識し、毛呂山町の偉人に一人に加えている。確かに、権田直助については、草莽の志士として、西郷隆盛と組んだ武力闘争の部分もあり、また、明治政府の神仏判然政策の時期の活動などの、人によっては語りにくい部分もあるが、大山阿夫利神社の祠官となって大山の地に移住してからの、国文学者として著作本や、また、神道布教のために書いた「神教歌譜」の功績を見直したと言う。確かに、明治20年、権田直助が大山の地から出版した「国文句読点考」は、現在の句読点学の第一人者大類雅敏先生から「句読点学のバイブル」と評価されている。また。「神教歌譜」は東大教授で、ドイツからやってきた讃美歌研究者のヘルマン先生により、「日本の唱歌」の出発点と報告されている。

これらを総合し、志士の部分は大声で語らずとも、文章に基礎である「句読点」については、もっと誇っても良いのではないかと判断。その年から小学校6年生の副読本に掲載。また、学芸員がパワーポイントを作成し、出前授業もし始めたと聞いた。そのパワーポイントは私も所有しているので、是非、伊勢原市民にもみて欲しい。


権田直助肖像画

私自身、その年、毛呂山町広報室から「いせはら歴史解説アドバイザー」のライセンスを所有する伊勢原住民としてのコメントを求められ、「当面、負の部分は小にして、傑出した部分を大いに語りつぎ、彼の偉業を先ず、知らせるべきではなかろうか。」という、拙い一文を寄せた。

肖像画の裏に書かれた文字
(「生死堺」慶応元年サツマ屋敷 直助)と書かれている。
西郷の呼びかけに立ち上がった頃の写真であろう。

 それが、広報誌によって全町に伝わり、毛呂山町における、直助研究文の象徴的な説として、引用も求められるようになっている。



生誕地でもなく、神仏判然令で何かと話題の多かった伊勢原では、同じような立場で語るのは難しいかもしれないが、大学の研究による評価にもう少し目を向けても良いのではなかろうかと思っている。一部の市民の間とはいえ、伊勢原のシンボルでもある阿夫利神社の境内に座像が建立され、墓地が公園化されているよな著名な権田直助の「誇れる功績」を、負の部分だけで語り継がれないのは、少し狭量では無いだろうか。

 伊勢原市民が早く、このことに気が付き、「権田直助」の名が市民の間に知れ渡るよう、今後も努力を根気よく続けて行きたい。

なんでも屋で、何にでも反応する「ISEHARA・おもてなし隊」と言う噂も伝わっているらしいが元々の目的が噂のとおりですので、問題なく、この噂がもっと広がって欲しいと思っている。(写真はクリックして下さい。)

今日はここまで。次回は、石尊山と不動堂の件を報告します。


自己紹介
「山女」以上の「大山女」だそうです。
解説開始