2014年6月20日金曜日

作助ウォークⅦ試歩は「品川宿」              心は絶好調でしたが・・・?


平成26年6月18日(水)時々小雨もありましたが、他に苦にする事もなく、じっくり、ゆっくり、品川宿を学習をさせて頂きました。しかし、遊びが過ぎて、折角配って頂いた資料の予習もせず参加し、引率の諸先輩には誠に申しわけないことをしたと思っています。

そんな中で、「東海寺大山墓地」の「賀茂真淵の墓」に出合った時は感動・感激しました。



賀茂真淵(浜松市立賀茂真淵記念館HPより転載)

真淵と言えば、国学の祖と呼ばれている大人(うし)であり、大山の御師達の心の支えとなった「平田篤胤☛權田直助」の系統的な思想体系の源流です。権田直助が門をたたいた、平田篤胤の国学は古典を古事記に限定した本居宣長の学説を引き継いでいると言っていますが実際は「口承の伝承こそが古典」とし、祝詞を重視しています。さらに、篤胤は民衆の死後の行方も、「人は黄泉の国へ行くと、良い志を持った人は神になり、冥界にも行くことができる。」と説いています。それは、民衆への死後の世界の提示よりも現世における生き方の問題として、語られている。






それが、権田直助に引き継がれ、大山の御師達に大きな影響を与えています。つまり、幕末の草莽の志士たちの心の支えとなって、原理主義的な活動を呼び起こし、武家社会を崩壊させる原動力となったと言われています。







しかし、二人とも国学とは「古道の学問」であり、皇国が万国の上に立つ国であることを明らかにするための学問とした点である。「科学・学問」とは、原因と結果から一定の真理・法則を引き出そうとする研究であるとすれば、国学は古典を研究し、そこに流れている真理・法則を明らかにしようとするものといえましょう。国学者たちは古典や和歌、伝承、祝詞等の研究を通じて、日本人の心の有り様や伝統を発見し、伝えようとしたものです。



江戸期、こういった学問は中国の古典を研究する「儒学」しかなかった。日本の古典は、儀式の為とか、単なる伝承、娯楽として扱われていましたが、その中に存在するであろう真理を追究し始めたのが「賀茂真淵」なのです。





「大山の歴史」を勉強する途上、このことを知っていたので、思っても居なかった「真淵の墓」に出合い、感動したと言う訳です。


阿夫利神社の境内に建立されている国学者「權田直助像」は巨大な「獅子像」の影に隠れて、さらに小さくなってしまいましたが、直助の大山に於ける功績は、あの巨大な「獅子像」を凌ぐほどの大きさなのではないでしょうか。伊勢原の方々は、西郷隆盛と組んで起こした武力闘争を過大に評価し、国学者としての権田直助を見逃しているような気がしてならない。すでに、直助の生地、毛呂山町では「志士としての直助は小さく語り、国学者、句読点の祖としての直助を大きく語り継ごう。」と動き始めています。2012年の「直助、没後120年」を契機として、直助は毛呂山町の三大偉人の一人となり、「句読点の祖」として、小学校の副読本にも掲載されるようになっています。 



真淵の墓地は30坪ほどあろうか?鳥居が建ち、その奥に、庭石様の石が複数重ねられていました。神仏混淆の墓石は大山の地でも見たことはあり、六角柱の石塔か、神殿様の墓石だったような気がしますが3mを越える鳥居を配している墓地は、イギリスのストーンサークルを思わせ、日本に脈々と受け継がれてきた原始宗教の心を覗いたような気分になった。

また、長くなった。今日は終わり






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